「瀬那(せな)?」
橘遼(たちばな りょう)は雑誌を開き、思わず声を上げた。
三月下旬。愛読している「月刊バスケットボール」の最新、四月号の発売日。
部屋のベッドに寝転んで雑誌を広げた遼が目にしたのは、四月号に毎年ある「高校生・期待の新一年生特集」のページだった。
そこに載っていたのは、遼にとってよく見覚えのある名前と、記憶の中にある姿からはだいぶ成長した、一人の男の写真。
試合中の一枚なのだろう、相手をかわしてインサイドへ切り込む瞬間をとらえたその写真には、
『博多大学付属中学 五十嵐瀬那 予想進路 付属高校』
『パワーとキレのあるオールラウンダー。付属高校への進学が有力。大きな得点源となるだろう』
のコメントが添えられていた。
「そっか、お前も頑張ってんだな」
遼は目を細めると、雑誌の中の「瀬那」に声をかけた。
黒ベースのユニフォームに身を包み、抜いた相手には目もくれずにまっすぐゴールへ向かうその表情は、自分が知っている瀬那ではない。強く厳しく、そして一点に対して飢えている獣のようだ。
面影があるにはあるが、と遼は写真を眺めて口の中でぼそりと呟いた。
「ずいぶんイケメンになったじゃねえかよ」
流れるアッシュグレーの髪、色素の薄い瞳、形の良い大きな口。十人いれば十人が振り返るであろうその整った顔立ちは、よく知っている「小さくてかわいい瀬那」ではない。体つきも大きく、写真で見るだけでは分からないが百八十センチはゆうに超えているだろう。
隣の家に住んでいた瀬那が九州に引っ越してから、もう五年になる。
二つ年下の瀬那は、細く小さく泣き虫で、引っ込み思案のおとなしい子どもだった。当時体が大きな方だった遼は、そんな瀬那を弟のように大事に思い、かばい、守っていた。
瀬那が引っ越したときは、まだ互いに個人の電話を持っていなかったために、それから連絡は取っていない。
東京と福岡。遠く離れてはいるが、夏、全国大会まで進めばきっとまた会える。
「インターハイで会おうぜ」
インターハイ、そう口に出した瞬間、胸がずきんと痛み遼は眉を寄せた。
今年は高校生活最後の年だ。
去年、先輩たちと立ったあの舞台にまた立てるだろうか。いや、今自分は、名門武蔵野西高校男子バスケ部のキャプテンなのだ。弱気になってどうする。
――二か月前と同じ思いをするのはもうごめんだ。
遼は雑誌を閉じると仰向けに寝転がり、右手を天井に向かってぐっとのばした。
四月になった。
入学式から二日後の、部活仮入部初日。体育館で横一列に並んだ18人の入部希望者を見た遼は目を丸くした。
――何でお前がいる――!!!???
右から三番目。頭一つぴょこんと飛び出た背の高い一年生の顔に、遼の視線は釘付けになっていた。
瀬那?
遼は二・三度大きくまばたきをした。
グレーがかったやわらかそうな髪。雑誌の写真で見た真剣な顔とは違う、少し眠たそうなたれ目、きゅっと引き結んだ大きな口。
Tシャツと膝丈のハーフパンツからのびる長い手足、全身にほどよくついた、しなやかな筋肉。
見つめる遼の視線に気づいたのか、瀬那は、色素の薄い瞳を揺らすようにして遼と視線を合わせると、合図をするようにわずかに口角を上げた。
遼が息を飲んだ瞬間、顧問の声が響いた。
「次!」
「はい! 五十嵐瀬那、博多大学付属中出身! ポジションはスモールフォワードです! よろしくお願いします!」
夢でも幻でもない。間違いない、瀬那だ。
でもどうしてだ? 雑誌には『予想進路 付属高校』とあったはず。突然東京、しかもこの学校にいるはずがない。
頭の中で「何があった」「何で瀬那が」と疑問が渦巻いてめまいを起こしそうだ。
「よし、これで全員だな。ではキャプテン、ひとこと」
「……橘君!」
横からマネージャーに小声で鋭く促され、遼ははっと我にかえった。顧問、コーチ、新入部員、それから部の全員の意識と視線が自分に集中している。
そうだ。今は、瀬那がどうしてここにいるのかに気を取られている場合ではない。遼は顔を上げ、大きく息を吸い込んだ。
「西高男子バスケ部へようこそ。三年、キャプテンの橘だ」
一年生18人のうちの数人に、明らかに「えっ?」という動揺がほんの少し生まれたのを、遼は見逃さなかった。
無理もない。
体育館に居並ぶ30名ほどの二、三年生はいずれも身長185センチから2メートル近く。当たり負けしないよう鍛え上げられた筋肉で体は厚く、立っているだけで威圧感のある者が多い。
その中にあって遼は、一般の高校生男子とそう変わりはない176センチ。太くも細くもない体格。目つきは悪いが顔かたち自体はお世辞にも厳格・強面というには遠く、丸く大きなつり目に大きな口。
とても、ずらりと並んだ猛者たちを従えるキャプテンには見えないというのが正直なところだろう。
遼は、その数名に軽く視線を合わせると口元をにやりと引き上げた。
「見透かされた」と思ったのだろう、腰を叩かれたように彼らの背筋が伸びたのを確認すると、遼は口を開いた。
「知ってのとおり我が西高男子バスケ部は、東京都の中でもベスト3に常に入る強豪校だ。今年度ももちろん、関東大会、そしてインターハイも狙っている」
それを知らずに入部したわけじゃないよな? と遼は一人ひとりに視線を合わせていった。強豪校キャプテンの強い眼力にみな一瞬怯みながらも、負けじと視線を返す。緊張の中にも期待とギラつきのあるいい目だ。
「一年も三年も関係無い。すべては努力と実力次第だ」
ひとり、またひとり。
「練習はきついと思うが期待している。一緒に頑張ろう」
「はい!」
「早速練習に入る。二・三年生はいつもどおり。一年生はマネージャーの指示に従ってくれ」
時間は限られている。いつまでものんびりしてはいられない。遼はマネージャーが一年生を集めたのを確認すると、ウォームアップのために上級生をひきいて体育館内で軽くランニングを始めた。
どうしてここにいる、お前九州にいたんじゃなかったのか、と瀬那に声をかけたいのはやまやまだが、今は部活中で、自分はキャプテンだ。
見ていないつもりでも、瀬那の姿が視界に入る。胸に英字が大きくプリントされた白のTシャツ、紺の膝丈のハーフパンツ、買ったばかりなのだろう、真新しい黒のバッシュ。腕を後ろに組み、他の一年生と一緒にマネージャーの話を聞いている。恐らくはこれから、現在の実力を把握するための基礎能力テストだ。
やはり、顔かたち、スタイルともに一人だけ目立っている。190近くはあるだろうか、雑誌で見るよりも大きく感じる。
自分が知っている瀬那は、ああではなかった。
ひょろりとして色が白くて、いつも「遼ちゃん」と自分の後をくっついて歩いている小さな子だった。か細く高い声、泣き出しそうなたれ目。自分が守ってやらなければと思っていた。
それなのに、あの変わりようは何だ。
「ストレッチ!」
息が上がる前にランニングを終わらせ、二人ひと組でストレッチをする。いつも組んでいる副キャプテンの秋葉冬伍(とうご)が、背中を押しながら低く声をかけてきた。
「遼、どうした」
「あ?」
「集中してない」
まずい。遼はごまかすように、ことさら不機嫌な顔でこたえた。
「んなこたぁねーよ」
「どうだか」
そんなに、見るからに落ち着かない様子だろうか。遼は「ちっ」と小さく呟き、肩越しに冬伍を軽く睨み上げた。
いくら、ここにいるはずのない幼なじみの顔を見て驚いたとはいえ、我ながら情けない。
「集合!」
遼は一年生の集団に背を向けると腰に手をあて、よく通る声を張り上げた。
東京都、私立武蔵野西高校男子バスケットボール部。
都内でも有数の強豪校として名高い。
練習は、平日は朝練と放課後の三時間。短時間ではあるものの、息をつく間もない凝縮されたメニューになっている。土曜日は自主練習や、試合前の追い込み練習のために使われていた。
年によって多少のばらつきはあるものの、部員数は毎年ほぼ50人前後。
強豪とはいえ学校の中で優遇されていることは特になく、部室は他の部と同じく、通常教室の四分の一ほどの広さしかない。
よって、50人が着替えをするスペースを確保できるはずもなく、部室にロッカーはベンチ入りのレギュラーの数、15個だけ。
つまり、レギュラーではない者は、各自の教室、もしくは体育館に来て着替えるということになる。部室の自分のロッカーをキープすることが、まずはひとつの目標であり、モチベーションとなっていた。
高校生にとっては酷とも言えるほどの徹底した実力主義。三年生でも優先的にレギュラーになれるわけではない。それは、キャプテンや副キャプテンであっても同じことだった。
部活が終わり、部室内ではレギュラーたちが着替えと帰り支度をしていた。
徒歩・自転車・バス・電車と、部員たちの通学手段はさまざまだ。練習後は、練習着の上に部活動のジャージをはおっただけで帰宅する生徒も多い。
「んじゃな」
「おー、お疲れ」
着替えを終えたレギュラーの部員たちが次々に部室を出て行く。
制服はこのままロッカーに吊り下げておき、翌日の朝練後にここで制服に着替えて授業に出れば楽だということで、ほとんどのレギュラーがそうしている。
遼は練習着のまま壁際のベンチに腰かけると、顧問から受け取った用紙の束に目をやった。一年生たちの仮入部届だ。
『1のD 五十嵐瀬那』
急いで書いたのだろう、真ん中の画数の多い部分が流れて繋がり気味の荒れた字だ。遼は思わず笑みをこぼした。
「18人か。何人残るんだろうな」
冬伍が部活ジャージをはおりながら声をかけてきた。ジャージは、NBA、シャーロット・ホーネッツをイメージした白地。アクセントとして、上下ともに脇にターコイズブルーと濃紺のラインが入ったデザインになっている。
「根性しだいだな」
「どうだろ、俺根性ないけど残ってるし」
「言ってろ」
おどけた口調で言う冬伍の背中に、遼は座ったまま蹴りを入れた。
冬伍は見た目ちゃらちゃらとしたところはあるが、頼れる副キャプテンだ。180台後半の身長、顎まである長い茶髪を練習中は雑に後ろで一つに結わえている。
「遼、着替えないのか」
「おう」
促され、遼はロッカーからジャージを取り出した。制服に着替えるのは面倒、とほぼ毎日部活ジャージのまま帰宅をしている。ワイシャツだけを丸めてバッグに突っ込むと遼は「帰るか」と部室を出た。