①2話


 4月10日、夜7時半少し前。さすがに辺りは暗く星が見え始めていたが、寒さはない。空気が動くたびに、ほぼ散りかけている桜から残りわずかな花びらが、はらりはらりと落ちてくる。
 白いジャージ、濃いターコイズブルーのエナメルバッグ、黒のスニーカー。学校指定の革靴はロッカーに置きっぱなし。

「お疲れ様でした!」
「おう、また明日な」

 体育館で着替えをしていた後輩の部員たちが、門までの間、追い抜きざまに挨拶をしていく。遼はバス通学だった。バス停は門を出れば目の前にあり、自転車通学の冬伍とも毎日そこで別れる。
 今日もきつい練習だった。執拗なまでの基礎的なフットワーク、実戦に近づけたオールコートの3対2。入学したての頃は何度も吐いた練習メニューだったが、三年生になった今では、軽々とは言えないが、キャプテンとして後輩たちにしめしがつく程度には何とかこなせるようになっている。

「ふぁ」
 あくびをした遼に目をやると、自転車を引いた冬伍が口を開いた。
「……で」
「あん?」
「あの一年生だろ?」
「何が」
「集中力散漫の原因」
 冬伍はにやりと口角を上げた。
 ごまかしたつもりだったが、やはりバレていたか。
「食えねーやつ」
「まぁね」
「幼なじみ」

 会社員の父とパートに出ている母、年の離れた兄という一般家庭の遼に、スポーツ選手の父と元モデルの母を持つ、周りとは違った目で見られる家庭の瀬那。しかし二人は気が合い、毎日のように一緒に遊んでいた。
 成長が早く、周りの子どもたちよりも体が大きかった遼が、テレビで見たNBAと、高校のバスケ部で活躍していた兄に影響されてバスケットボールを始めたのは小学四年生の時のことだった。そして、いつも遼と一緒だった瀬那もすぐに「自分も」と後を追い、二人は一緒に公園でバスケットボールの真似事をするようになった。

「でもあいつ、出身博多って言ってなかったか?」
「ああ、小学校んとき引っ越したから」

 瀬那が博多に引っ越したのは、遼が中学一年生、瀬那が五年生の時だった。スポーツ選手である父の仕事の都合で、突然のことだった。

「行きたくないよ、ぼく遼ちゃんと離れたくない」
 泣きじゃくる瀬那の手を握り、遼は頭をぽんぽんと撫でて言った。
「また帰ってくんだろ、そしたらまた一緒にバスケしような」

 家は売らずにそのまま残すというし、何年かしたら帰って来るのだろう、そう思っていた。
 そしてそのとおり、二年後、瀬那の父がまた東京のチームでプレイすることになった。
 しかし、瀬那が東京に帰って来ることは無かった。
家に戻ってきたのは瀬那の父だけで、母と瀬那は福岡にそのまま残った。
「いろいろあるんじゃないの」
 母はそう言って、詳しいことは何も教えてはくれなかった。電話をしようにも番号は知らず、手紙を書くような性格でもない。
 ちょうど中学三年生で、部活にも受験にも忙しく、遼はそれ以上深追いせずに高校に進学した。

「で、何そんなに不機嫌な顔してんだよ。幼なじみにまた会えたんだろ」
「まーな」
 何となく面白くない理由は自分でも分かっている。
「おおかた、俺に黙ってとか、聞いてねーしとか、そんな感じだろ」
「心を読むんじゃねーよ」
「だてに丸二年一緒にバスケしてないからな」
「お前にはかなわねえわ」
 遼は、ふふんと得意そうに言う冬伍に息をついたが確かにそのとおりだ。
まったく我ながら、ただの子供じみたわがままだと言っていい。

 帰って来るなら来るで何か連絡をよこせばいいし、隣に住んでいるというのに今日の今日まで何も言って来なかった。そのことに拗ねているのだろうと言われてしまえばそれまでだ。
 それに、あの小さくていつも自分に守られていた瀬那が。飼っていたチワワが立派なドーベルマンになって帰ってきたようなものだ。
「あと単純に可愛くねえ」
「なんだそりゃ」
 呟くように文句を言う遼に冬伍は思わず噴き出したが、何かに気づき「あ」と小さく声を上げた。
「遼、ほら」
「え」
「あれ」
 冬伍がくっと首を傾げるようにして門を指した。瀬那が門に寄りかかり立っている。
 ボタンをひとつだけはめた紺のブレザー、緩く締めたネクタイ。部活が終わって急いで着替えたのか、入学したばかりの一年生らしからぬゆるい制服の着方だ。
「どう見てもお前待ちだな」
「そーだな」
 部の一年生たちとはもう別れたのか、周りには誰もいない。片手でスマホをいじり、もう片手はポケットに突っ込んでいる。姿勢正しく綺麗に立っているわけではないのに、なぜか目を引く。
 まるで、クラスの女子が見ている雑誌のモデルのようだ。
 部活帰りの女子たちが、瀬那を見ながらこそこそと話をしている。
 ふわふわとした無造作な髪。すっと形の良い眉にたれ目、大きな口。遠目に見れば昔とそう変わりはないのに、長く伸びた手足と、成長してさらに整った顔立ちが確実に、会わなかった時間の長さを表している。
「じゃな、また明日」
「あ、ああ」
 冬伍が自転車に乗り去ると、遼は息をついた。

 そうだな、あいつももう高校生だ。大人になったんだ、喜ばしいことじゃないか。
 子供ではないのだから、わざわざ幼なじみに連絡もしないだろう。それに、面影はあるとはいえクールな印象だ。多少性格も変わったのだろう。まだ話していないが口数が多そうにも見えない。
 ぼうっとしているのか、それともスマホに集中しているのか、こちらには気が付いていないようだ。
 これから冬までは一緒にまたバスケをやるんだ。帰り道、福岡での話でも聞くか。

「瀬那」
 近づき、遼はにっと笑って声をかけた。
「あっ」
 瀬那が顔を上げた。
「……りょ」
「久し」
 久しぶりだなと遼が言おうとした瞬間。

「りょ―――ちゃああああああああん!!!!!」
「ぎゃ―――――――――――――!!!!!!」

 体当たりのようにぶつかられ、遼は思わず叫び声を上げた。そのまま長い腕でぎゅうぎゅうと強く抱きしめられる。
「遼ちゃん! 遼ちゃん遼ちゃん会いたかった!」
「くる、し……」

 なんだこれ? 予想の斜め上どころか裏側すぎるぞ。
 息も絶え絶えでうめき声を上げる遼にかまわず瀬那は、なおも遼を強く抱きしめながら拗ねた口調でまくしたてた。

「さっき無視したでしょ! 遼ちゃん何か怒ってるの? ひどいよ俺泣いちゃうよ?」
「……は、な」
「遼ちゃん! ねえ、りょ―――ちゃんてば!」
 190センチほどもある大男が、力任せに締め上げるように抱き着いてくるのだ。たまったものではない。
「俺待ってたんだよ? 一緒にかーえろ!」
 ノリが完全に小学生のままだ。絡みつく腕を何とか引きはがし、遼は瀬那を怒鳴りつけた。
「放せっつってんだろ殺す気かこのバカ!」
「あ、ご、ごめん!」
「てめーはジャングルのアナコンダか! マジで死ぬかと思ったわ!」
「うわ―――ん! ごめんなさい!」
 瀬那は大きな体を縮ませて泣き声を上げた。何ごとだ、と帰りがけの生徒がこちらを見ながら横を通って行く。
「だって遼ちゃんさっき俺のこと無視するしさ、忘れちゃったのかなーって悲しくなっちゃったんだもん」
「無視したわけじゃねーよ! あんな大勢の前でこっそり合図されたところでどーしようもできねーわ!」
 ガキか! と遼は腕を組むと息をついた。この身長、モデル並みの体格、クールな見た目でこの中身。
「……だいぶ残念だな」
「え、なに?」
「いや何でもねえ」
 ――ったく、あの頃のまんまじゃねーか。
 しょんぼりしている瀬那の頭をぐりぐりと撫でると遼は目を細めた。さっきまでのもやもやした気持ちがすうっと音を立てて溶けていく。
「覚えてるに決まってんだろ、ばぁか」
「遼ちゃん!」
 勢いよく顔を上げた瀬那の頭にぴょこんと立った犬の耳が見える。
 ドーベルマンなんてかっこいいもんじゃねえや。でけえ柴犬だ。
 遼は思わず噴き出し、瀬那を見下ろした。
「帰るぞ。聞きてーことが山ほどある」
「うん」
 遼はふっと笑うとバス停に歩き出した。


 バス停に生徒は並んでいなかった。この時間帯、同じ方向に向かうバスを利用する者はいない。時折、背後をとおり駅に向かう女子たちがこちらを見てこそこそと話す声が聞こえてくる。
「遼ちゃん、何かひそひそされてない?」
「気にすんな」
「東京こわい」
「お前元々こっちいただろ」
 どう考えてもこの男前の話だ。遼はちらりと瀬那を見上げた。
 中身が小学生のままであるという残念さを知らない女子からすれば、モデルのような新入生がいると噂話のひとつもしたくなるだろう。
「どしたの」
「何でもねえよ。ていうかお前でかくなりすぎだろ」
「へへ、中学でいっきに伸びちゃった」
 瀬那に目をやると、ふんふんと機嫌良さそうにたれ目を細めてバスを待っている。まさか、小さかった瀬那をこんな角度で見上げることになるとは思わなかった。遼は「ちぇ」と眉をひそめた。
「そーいやお前もバスなんだな、自転車にしなかったのか」
「うん、おばさんに遼ちゃんがバスだって聞いたから」
「んだよ、うちのかーちゃんも知ってたのかよ」
 まじで知らなかったの俺だけじゃねーか、と遼は唇を尖らせた。

 じきにバスがやってきた。車内はいつもどおり、座席に余裕のある空き具合だった。遼は後ろから二番目の二人がけの席に腰かけると、大きなエナメルバッグを隣にどさりと置いた。瀬那は、細い通路をはさんだ隣の二人掛けに腰かけた。長い手足が窮屈そうだ。
「お前いつ帰ってきたんだ」
「四月に入ってから。入学式ギリギリ」
 俺何回か遼ちゃんち行ったんだよ、と瀬那は恨みがましく膨れた。

 四月の頭。確かに春休み中、自分は部活のことで頭がいっぱいだった。
 十二月の全日本選手権が終わり、引退した先輩からキャプテンを引き継いだ。この学校の、このチームの伝統を守らなければならないと必死になっていた。
 そして三月、四月。最上級生としてもっとしっかりしなければ、キャプテンとしてチームを引っ張って行かなければと思っていた。
 毎日部活の前に早出をして一人で打ち込み練習をし、通常どおりのハードな練習をこなした後、自主的に居残りを申し出ていた。帰宅をして、風呂に入りながら寝てしまうことも少なくなかった。そうだとしたら、瀬那が来ていたのに気づかなかった、気づいてやれなかったのは自分の方だ。
「悪ぃ、たぶん寝てた」
「うん、いいよ」
 瀬那は「へへっ」と笑うとバッグを抱えた。

 聞きたいこと、言いたいこと、話したいことは山ほどあるはずなのに言葉が出てこない。もともと、話をするのが上手な方ではない。遼はガラス窓にコツンと頭をもたせかけると外を眺めた。
 いつもどおりの帰り道、流れて行く風景、そしてガラスに映る幼なじみ。通学バッグと一緒に持っているのは、中学の頃に使っていたチームバッグなのだろう、表に校名と「バスケットボールクラブ」と書いてあった。
 毎年新入部員たちは、ターコイズブルーのチームバッグやジャージを受け取るまでは、中学生時代に使っていたものをそのまま使うことになる。それが名刺代わりにもなるが、それが嫌でわざわざ短期間でもスポーツ用バッグを用意する者も中にはいる。
 博多大学付属中学。大学、高校はもちろん中学もバスケットボールの名門だ。高校とは試合で何度か対戦したこともある。
 あそこで鍛えられて、雑誌にも載るくらいだ。相当努力したのだろうし、即戦力なのは部にとって正直ありがたい。
 遼はふっと笑うとまた、窓の外に目をやった。


 特に何を話すでもなく、最寄りのバス停に着いた。いつもどおり、タンタンと音を立ててバスを降りる。
 バス停から家までは五分ほどだ。バス停の前にコンビニが一軒。それから、小さい頃によく遊んだ公園の前を通る。
「明日のこと聞いてるか」
「朝練、七時半に体育館集合でしょ」
「おう」
 バスケ部はほぼ毎日朝練がある。このせいで入学式からの三日間、通学時間に瀬那と顔を合わせることは無かったのだ。
 そう考えるとやはり、瀬那に責任は何も無い。自分一人で勝手に驚いて勝手にむっとしていただけだ。
 ――俺もまだまだガキだな。
 遼は息をつくと、門に手をかけながら隣の瀬那の家を見上げた。
「あれ」
 瀬那の家の電気が消えている。玄関を照らす外灯の他は、どこにも明かりがついていない。なんとなくだが、家の中にひと気が感じられない。
「今日かーちゃんいねえのか」
「あ、うん」
 瀬那の父親は、今はスポーツ選手を引退しているが、チームと一緒にシーズン中は遠征で家を空けていることが多い。しかし母も出かけているというのなら、もう高校一年生とはいえいろいろと心配だ。
「お前メシ大丈夫なのか? 俺んちで食ってけよ」
「ありがと、でもキーパーさんがご飯作っててくれてるはずなんだ」
 瀬那の父が一人で東京に帰ってきたとき、心配した遼の母が、食事や家のことは大丈夫なのかと尋ねに行ったことがある。「専門の人が来てくれるから大丈夫ですよ」と言っていたが、引き続き頼んでいるということなのだろう。
「そか。じゃな、明日七時のバスだから遅れんなよ」
「うん、また明日」
 また明日。毎日当たり前に言っていた、この言葉も久しぶりだ。

「ねえ遼ちゃん」
 瀬那がほんの少し、ゆっくりと口を開いた。
「あん?」
「遼ちゃん、めちゃくちゃカッコよくなったね」

 遼は「何を突然」と目を丸くしたが、瀬那は心にもないおだてや含みのある言葉が言える人間ではない。心の底からそう思ったことを素直に口に出す。
 だから、瀬那の言葉は信用できる。遼はにっと笑うと得意げにこたえた。
「俺は昔っからかっこいいからな」
「あっは、俺もそう思う」
「お前も、見た目はまぁ男前になったぞ」
「褒められた!」
 まるで、言いつけを守ってご褒美をもらった忠犬だ。遼は手を伸ばすと瀬那の頭をわしゃわしゃと撫でた。
 じゃあね、と瀬那は軽く手を振ると家に入った。中から玄関に灯りがともり、リビング、それから二階の瀬那の部屋にぱっと電気が点いた。
 部屋、変わんねえな。あそこか。
 ふうん、と瀬那の部屋の電気を眺めると遼は家に入った。

「ただいま」
「お帰り、すぐご飯にするね」
「はーい」
 遼は自分の部屋に入ると、バッグの中からワイシャツを取り出した。明日までバッグの中でこのままにしておくと「洗濯にすぐ出しなさいって言ったでしょ!」と母から大目玉をくらうことになる。着ていたジャージを椅子に掛けると遼は階段を下り、ダイニングを覗いた。「すぐご飯」と言われたとおり、母がテーブルに皿を置いているところだった。
「ご飯自分でよそって」
「うん」
 遼は母から自分の茶碗を受け取ると、ジャーを開けた。遼の帰り時間に合わせたのか、炊き上がったばかりだ。
「兄貴は」
「まだ仕事」
 六つ年の離れた兄は社会人になっていて、毎日帰りは遅い。大学まではバスケットを続けていたが、怪我でプレイヤーは引退している。父もこの時間に帰って来ることは少ない。
「いただきます」
 母と向かい合って食事をする。いつものことだ。
「母さん、今日瀬那に会った」
「今日? ずいぶん遅いわねお隣なのに」
「俺あいつ帰って来てるの知んなかったし」
 野菜たっぷりの八宝菜を頬張り、遼は少しむっとしながら答えた。
「母さん知ってたんだろ」
「言ったわよ、瀬那くん帰ってきたわよーって」
 聞いていない。やはり寝ていたか、それとも寝ぼけていたかだ。
「あら拗ねてんの」
「拗ねてねーし」
 もぐもぐと春巻きを噛みながら、おかわりの茶碗を差し出す。
「瀬那くんずいぶん大きくなったでしょう、びっくりしちゃった」
 あんなに小さかったのにねえ、と母は茶碗にご飯を山盛りによそった。朝食、朝食後の軽食、昼食に弁当か学食、部活前に軽食、それから帰宅後に夕飯。毎日大量に炊かれる橘家の白米は、ほとんどが遼の胃袋におさまっている。
「大きくなったし、しっかりしたわねえ。昔はあんなに恥ずかしがり屋さんだったのに」
「しっかりしたかは分かんねえけど、あいつももう高校生だしな」
 ごちそうさま、と食器をシンクに置くと遼は、そのまま風呂に入った。この風呂に、瀬那と二人で一緒に入ったこともある。
「ま、今は無理だな」
 あいつまじででかくなりすぎだ。
 遼は足を伸ばして「追い炊き」ボタンを押すと、ざぶりと湯に潜って笑った。
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