①3話


 翌朝、遼が玄関を出ると、隣の家の玄関が同じタイミングで開いた。
「おはよう遼ちゃん」
「おう」
 鍵をカチャンとかけると瀬那は、小走りに遼に駆け寄った。瀬那は制服、遼はジャージ。早めの時間のバスは、まだ人が少ない。遼は吊革につかまり「ふぁ」とあくびをした。
「遼ちゃん相変わらず朝弱いね」
「おう、十時間は寝てえな」
 平日、火曜から金曜日は放課後みっちり部活。土曜は自主練、日曜はほぼ毎週練習試合。現状、ゆっくり寝ていられる日など無い。
「体力ねぇわけじゃねーんだけどなぁ」
「いろいろ無理してるんじゃないの?」
「んなことねーよ。それより瀬那」
「なに? 遼ちゃん」
 たれ目の奥の、透き通るような色の瞳で顔を覗きこまれる。バスの中が混んでいるわけでもないのに顔が近い。遼は一瞬ぐっと息をこらえると視線を外した。
「お前、学校で俺に『遼ちゃん』禁止な」
「え―――?」
 瀬那は不満そうにふくれた。
「えーじゃねえ。俺は三年、先輩、キャプテン。お前は一年、後輩。分かるな?」
「うん」
「他の奴らにしめしがつかねえ」
 ガチガチに厳しく固い上下関係のある部ではないが、少なくともキャプテンが新入生に「ちゃん」付けされているのはいかがなものか。遼は「いいな」と瀬那を睨み上げた。
 瀬那はしばらくふくれたまま口の中でぶつぶつと文句を言っていたが、変わらず無言で睨み続ける遼にがくりと肩を落とした。
「……はぁい」
「よし」
 学校前に着いた。しゅんとなった瀬那の頭を撫でると遼はバスを降りた。


 西高男子バスケ部の朝練は、七時半集合、即開始。朝練ではハードな練習はしない。基礎的なボールハンドリング、それからドリブル。ボールのコントロールがすなわち技術の向上の基本となるからだ。
 練習着とジャージで来ているのだから、部室で着替える必要は無い。門から直接体育館へ。すでに中からは、早めに来たのだろう、熱心な部員たちがボールをつく音が聞こえてきた。
 遼は、上に着たジャージを脱ぎながら体育館を覗いた。待ちきれないのか、すでに3対3でミニゲームを軽く始めている者たちもいる。
 一年生が入ったことで、ざわめきのボリュームが大きい。体育館の空気がいつもよりも活気づいている。
 卒業した先輩たちが引退して三か月。広くなった体育館は、ゆったりと思う存分使えたが少し寂しいこともあった。
 やっぱり人が増えると賑やかだ。遼はにっと笑い、中にいる部員たちに声をかけた。

「うい――――――す」
 遼が体育館に入ると、着替えを終えていた三年生の一団が振り返った。
「お――す遼ちゃん」
「おせーぞ遼ちゃん」
「あ?」

 どういうことだ。
 遼は勢いよく振り返り瀬那を睨んだが、瀬那は気づかず一年生たちとわいわい話をしている。
「まぁ気にすんなよ遼ちゃん」
「朝練始めようぜ遼ちゃん」
「なんだお前ら急に! 気持ちわりぃな!」
 遼はぎゃんぎゃんと抗議したが、三年生たちは顔を見合わせてにやにやしている。じきに冬伍がやってきた。
「朝から盛り上がってんな、よう遼ちゃん」
「てめーまで何だいったい!」
 指差しながら遼がわめくと、冬伍はにやにやしながらボールを指先で回した。
「お前いつもさっさと寝るから見てないんだろ」
「は?」
「ケータイ」
 冬伍は遼のバッグを指差した。確かに昨日も、ベッドに寝転んで軽く復習をしている最中、早々に寝落ちてしまった。その後何があったというのか。遼は眉を寄せてバッグからスマホを取り出すとぎょっとした。バスケ部三年生のグループメッセージ、未読が180件。

『さっき帰りすげー面白いモン見たわ』
『なになに』
『新入部員のイケメンくんが泣きながら橘に抱きついてんの』
『まじか詳しく』
『一目惚れとか?』
『幼なじみらしいぞ。ソースは遼』
『だからイケメンくんが遼ちゃんて叫んでたのか』
『遼ちゃん』
『遼ちゃん??』
『遼ちゃんwwww』
『飼い主に再会した犬みてーだった』
『なにそれ見たかった』
『俺明日からイケメンくんのことラッシーって呼ぶ』
『俺は橘のこと遼ちゃんて呼ぶわ』
『じゃ俺も』
『俺も』
『じゃあ俺も』
『お前ら殴られるぞww』
『てゆーか橘これ見てねーの?』
『寝てんだろ』

 わざとらしく素知らぬ顔でストレッチを始めた三年生たちを指差すと、遼は大声で怒鳴った。
「お前ら今日の朝練、無限レッグスルーな!」
「は―――――――?」
「鬼か!」
「朝メシ吐くわ!」
 うるせえバカヤロウ! とぎゃあぎゃあ叫ぶ遼の背中を、冬伍が笑いながら軽く叩いた。
「騒ぐな、練習始めるぞ、遼」
「あ、おう」
 そしてボールをつきながらコートに入って行った。悪ノリをしていた三年生たちも先輩の顔に戻り、各自でドリブル練習を始めている。
 遼はスマホをバッグにしまうとコートに入り、ストレッチを始めた。
 冬伍は、ちゃらちゃらとした見た目に反して努力家で人望もある。遼にとっては尊敬できる友達であり仲間だ。
相手の言動に惑わされることなく、飄々としていていつでもクールな冬伍に対して遼は、カッとなり頭に血が上りやすい。自分が興奮状態のときもチームを冷静に見ることのできる冬伍に遼は、いつも助けられていると感じていた。
 チームのキャプテンを決める時、監督やコーチが、自分と冬伍で最後まで迷っていたことも知っている。だからこそ今は、キャプテンとしてしっかりこのチームを引っ張って行かなければいけない。
 自分を信じるためには、努力あるのみだ。
 遼はボールを手に取ると強く音を立てて床につき、ドリブルの練習を始めた。


 昼休み。
「橘! ねえ橘!」
 学食で昼食を終えた遼は教室に戻ると、クラスの女子に突然どっと取り囲まれた。
「何だよ」
女子は苦手だ。遼は分かりやすく眉を寄せて顔を背けた。
「これ見てこれ!」
 雑誌とスマホ、小さめのタブレットを、押し付けるように次々と目の前に突き付けられる。
 これだけのものを突然一気に出され、むしろどれを見ろと言うのか。とりあえず、と大きく開かれた雑誌を見た遼は、思わず目を丸くした。
 誌面、見開き。右側のページで首にマフラーを巻いた学ラン姿の瀬那が、こちらを向いて笑っていた。形の良い口を綺麗に引き上げ、たれ目は優しげに細めている。
「博多で噂のイケメン♡五十嵐瀬那くん特集!」
「瀬那くんの放課後に密着♡デート気分が味わえちゃうかも!」
 左のページでは、派手な色の二段アイスを手にした瀬那が、ショッピングモールの噴水の前で足を組んで腰かけていた。カフェでこちらに向かって優しく微笑みかけたり、頬杖をついて視線を外し、何か考え事をしているような表情のショットもある。
 スマホとタブレットには、同じ雑誌の特集の動画バージョンなのだろう、歩いたり何か食べたりしている瀬那の動画が流れていた。
「あ? なんだこれ」
 小学生のころから、一緒に街を歩いていてもスカウトに声をかけられることはよくあったが、どれも瀬那は「恥ずかしい」と断っていた。父親の仕事の都合で家に取材が入るときも、恥ずかしがり屋の瀬那はそのたびに遼の家に逃げ込んできていた。
 しかし瀬那ももう高校生だ。こういう話も受けられるようになったのかもしれない。
「これ! この子! うちの一年の子でしょ?」
「瀬那か」
「そう! 瀬那くん!」
 あれほどの顔面だ。遅かれ早かれ、いつこうなっても不思議ではない。遼は「ふうん」と動画と雑誌に目をやった。

 ――でも、何かしっくりこねえ。

 胃の底がざらつくような感覚に、遼は首をひねった。顔かたちは確かに瀬那であるはずなのに、見たこともない顔をしている。
「昨日橘と一緒に帰ってるの見たんだけど! 知り合いなの?」
「幼なじみだよ」
 遼がぶっきらぼうにそう答えると女子たちはきゃああと黄色い声を上げ、遼はげんなりと顔を背けて席に戻った。
 自宅からバスで20分ほどのこの学校には、そういえば同じ小学校からの知り合いはいない。同じ中学出身はちらほらいるが、今騒いでいるということは、皆瀬那がもともと東京にいたことを知らないということになる。
 自分も、中学時代の瀬那のことは何も知らない。引っ越しをしたのは小学生の時。その後瀬那が何を考え、どんな思いで過ごしていたのかも、何も知らない。
 会わなかった四年の間に、背が伸び、体が大きくなり、バスケットもうまくなった。ひたすら恥ずかしがっていつも自分の後ろに隠れていた瀬那が、雑誌の中で微笑んでいる。喜ばしいことなのに、やはり何かがしっくりとしない。

 ――全部が全部、昔のままじゃねーってことだ。

 変わったことだってきっとある。遼は頭の後ろで手を組むと椅子に寄りかかり「んっ」と伸びをした。


 その日の放課後、部室で着替えを終えた遼は、体育館の入り口に着くとぽかんと口を開けた。
 女子が、一年生から三年生までざっと数えて2・30名。入り口をふさいで中を覗き、きゃあきゃあと声を上げている。普段でも女子のギャラリーがいることはあるが、せいぜい数名だ。
 部員たちの士気が上がるだろうからギャラリーが増えるのはかまわないが、と思いながらも遼は頭をかいた。正直、女子にどう対応したらいいのか分からない。
「入らないのか遼」
 冬伍がやってきた。
「入りてーのはやまやまなんだけどな」
 遼が親指で女子の集団を指すと、冬伍は女子の多さに一瞬驚いた顔を見せたが「ふうん」と笑った。
 くそ、余裕見せやがって。遼は顎をくっと上げると腕を組み、不機嫌に口を開いた。
「どけ、邪魔だ」
「は――――? 何よ橘!」
「どかせるものならどかしてみなさいよ!」
「……うっ」
 三年の女子たちにじりじりと迫られ、遼は思わず後ずさった。もともと女子は苦手なうえに、集団になった時の女子の威圧感には手も足も出ない。すると冬伍がさっと前に出て、髪をかき上げながらにっこりと笑った。
「みんな、練習見るなら上のフロアがいいよ」
「秋葉くん」
「俺ら男子単純だからさ、女子の見学声援大歓迎」
「もー、やだ秋葉くんたら!」
「秋葉くんにも後で差し入れ持ってきてあげるね!」
「あはは、ありがと」
 女子たちは機嫌よく「じゃあねー」と冬伍に手を振り、入り口わきにある階段で上のフロアへ向かった。
「遼、お前あれじゃモテないぞ」
「モテなくて結構だ」
 遼はふんとそっぽを向いた。

 体育館の中では、早めに集められた一年生たちがグループに分けられ能力テストを受けていた。ここで得意をアピールし、苦手な面には今後の課題として向き合うことになる。情報はコーチにも共有され、指導やレギュラー選抜の参考にもされる。
 昨日は体力測定をしていた。例年どおりであれば今日は、バスケの技術的なことを見るはずだ。
 遼は腕を組み瀬那に目をやった。シュートのフォームと精度・集中力を見ているようだ。さすがに昨日のようにこっそりアピールをしてくることはない。パスを受け取り、ランニングからの流れるようなレイアップシュート、ボールを次々に受け取り、位置を変えながら入れていくジャンプシュート。
 能力を過剰に見せつけるでもなく、確実に丁寧に、一本一本を決めていく。
 綺麗だ。遼は素直にそう思った。
 多少なりとも緊張はしているはずなのに、その緊張と新しい環境を楽しんでいるようだ。しなやかな筋肉、やわらかな膝、手首。
「五十嵐あいつ、さすが月バスに載ってるだけあるな」
「ああ」
 自分が褒められたように嬉しい。中学時代、相当努力をしたのだろう。負けてはいられない。
 遼は二・三年生を集めると練習を始めた。


 水分補給と筋肉を休めるための休憩時間は、練習中適時取られる。マネージャーが用意した飲み物のほか、持参した飲み物や差し入れなど、練習の邪魔にならない程度に自由に飲食ができる。
 しかし、厳しい練習中に菓子や食べ物を口にする者はさすがにいない。そこは女子たちも心得たもので、差し入れは大概、練習が終わってから一緒に帰るための口実として、練習終了後に渡されることが多かった。
 二・三年生たちはいつもどおり、日替わりのトレーニングメニューを黙々とこなしていた。休憩をはさんで速攻や、試合形式の実戦練習に入る。
 遼がスポーツドリンクを飲んでいると、休憩に入ったのだろう、瀬那がタオルで汗を拭きながら駆けてきた。
「りょ……!」
 口を開きかけて、瀬那は「あっ」とタオルで口を隠した。朝、遼に「学校では遼ちゃん禁止だ」と言われたのを思い出したのだろう。
しかし、スマホメッセージ未読180件事件で三年生たちはさんざんいじられた。後輩たちに隠す意味ももう無い。遼は腕を組むと顎を上げ、睨み下ろしながら口を開いた。
「んだよ」
「りょ……」
 タオルを頭からかぶり、瀬那はうつむいてもごもごと言いよどんだ。
「りょ、うりが好きです……」
「バカかお前は! もういい好きに呼べ!」
 そう遼が怒鳴り瀬那の尻にキックをすると、体育館の上の方から「瀬那くんに何すんのよ!」「橘のアホー!」と怒声と悲鳴が上がった。

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