①4話


 関東大会の予選はすでに始まっているが、西高はシード校ということで初戦は月末。試合の前週に、同じくシード校の鷹乃森高校との練習試合が組まれている他は、試合当日までは実戦形式の練習がメインとなっていた。

 西高バスケ部は基本的に日曜と月曜の部活動は休みだ。しかし、そこで一日何もしない部員はほとんどいない。
 日曜朝八時半。遼はスポーツウェアに身を包み家を出た。背負ったボストンバッグにはバッシュ、着替え、飲み物、それからボール。
 自転車を引き、隣の瀬那の家のインターホンを押し「せ――――」と言いかけて遼は慌てて口を手で覆った。

 しばらくして玄関から出て来た瀬那は、グレーの膝丈のスウェットに白のTシャツ、髪はボサボサ。起きて少しぼーっとしていました、という風体だった。
「ふぁ、遼ちゃんおはよ」
「おう、八時半に出るって昨日言ったろ。支度しろ」
「そうだっけ」
「五分な」
 それでも最低限の支度は昨日のうちにしていたのだろう。瀬那は荷物を持ち、五分以内に家を出て来た。鍵を閉め、自転車を引いて門を出ると瀬那は遼にたずねた。
「どこ行くの」
「去年新しいスポーツセンターができたんだよ。そこ」
 部活が休みの日は、もちろん集団でのプレイはできない。そのため、一人でもできるボールハンドリングや筋トレといったトレーニングをすることになる。
 効率よく短時間で筋トレをするには、やはりジムが手っ取り早い。しかし、高校生にとって毎月の会費は小遣いでは厳しい。そのため部員たちは、自宅で工夫をしたり、それぞれの市や区のスポーツ施設に行ってトレーニングをしたりしていた。

 二人は、学校とは別方向、自宅から自転車で15分ほどの所にある新しい市営スポーツセンターに向かった。バスケットやバレーボールができるアリーナが二つ、鏡張りのダンスレッスン室や弓道・剣道・柔道場も整備されている。
「こんなのできたんだね」
「隣温水プールだからな、泳ぎたくなったらいつでも来れるぞ」
 遼は瀬那から身分証明となる生徒手帳を受け取ると、受付に向かった。
「今日は空いてんな」
 入館者ノートに記入しながら遼が言うと、受付奥の職員が答えた。
「まだ年度始まったばかりだからね、今日はバレーのチームも卓球のチームもお昼からだよ」
「え、じゃあ11時くらいからアリーナ使っていいっすか?」
「ちょうどあいてるね、30分くらいなら大丈夫だよ」
「やり! 瀬那、後で1on1 (ワンオンワン)やろうぜ!」
 遼は瀬那の背中を叩いてにっと笑い、早足でトレーニングルームに向かった。

 マシンが置いてあるトレーニングルームの利用は高校生から。しかし学校とは方角が違うため、同じ学校の生徒と顔を合わせることは無い。
 筋力アップのためのトレーニングをたっぷり一時間した後は、ランニングマシーンで有酸素運動をする。30分くらいか、と遼はいつもどおり全力よりも少し遅い速度で走り始めた。隣の瀬那も、同じくらいの速度を入力している。
「お前中学校んときトレーニングどうしてたんだ」
「学校にジムがあったし、あと街のジム行ってた」
「くっそ金持ちめ」
 この野郎、と遼は手を伸ばし、ピピピピ、と瀬那のランニングマシーンの速度と傾斜を上げた。
「わ――! やめてよ遼ちゃん!」
「うっせ」
 遼はべえっと舌を出したが、お返し、と瀬那が同じように遼のマシンの速度と傾斜を上げてきた。
「てっめぇ瀬那何しやがる!」
「あっは、遼ちゃんいい顔!」
 しかし速度を緩めるのは負けを認めたようなものだ。二人はそのまま走り続け、マシンを降りるとそのまま床に倒れるように座り込んだ。
「はっ……はぁ……もう、遼ちゃんの意地っ張り!」
「……ん、はぁっ……てめーだもろ、体力ついたな瀬那」
「うん」
 流れ落ちる汗を拭きながら水分を補給する。体はへとへとだが、このままアリーナへ行き1on1だ。アリーナは天井が高く、一階から三階までの吹き抜けになっている。普段の日曜は地域のクラブチームや奥様たちがバレーボールをしていることが多い。
「わぁ、広いね!」
「バスケは二面取れるな」
 朝から使っていたバドミントンサークルが練習を終えて出て行ったばかりらしく、アリーナにはまだ熱気が残っていた。シンとして静かなのに、空気はまだ熱を帯びている。吹き抜けから差し込んでくる明るい外の光がまぶしい。
 普段の部活の、ハードな基礎練習を終えた直後の休憩時間のような心地いい全身疲労と緊張感が体じゅうを支配している。第二クォーターと第三クォーターの間のハーフタイムくらいか。遼はバッグからボールを出すと、手のひらに吸い付く感触を確かめながら床に強くつき始めた。
 ダム、ダム、ダム。
 思ったリズムとスピードでボールが手のひらに戻ってくる。指先、指の腹、手のひら。いい感じだ。
 互いに体は十分あたたまっている。
 腰を落とし、ダムダム、とボールを左右に振りながら遼はにっと笑った。
「俺先攻な」
「いいよ」
 瀬那とバスケットをするのは五年ぶりだ。部活ではまだ一年生と上級生は混合で練習をしていないから、瀬那と一緒にプレイはしていない。
 シュート、一年生同士の3対3、4対3は見ているが、実際に対戦してみないと何も分からない。

 ――お手並み拝見といくか。

 心臓がどくりと大きく跳ねた。自分と同じくらいに低く腰を落とした、目の前の瀬那と視線を合わせる。
 いつもの、甘えてへらりとした情けない顔ではない。止めてやる、という獣のような鋭い目。軽く開いた唇で、こちらと合わせて細く長く呼吸をしている。
 トクトク、トクトク、瀬那の心臓の音が聞こえるようだ。冴え冴えとしている頭とは反対に、体中の血液が熱くなってくるのを感じる。

 いいね、いいビートだ。そう来なくちゃな。

 軽く垂らした長い両手を、こちらの軽いフェイクに合わせて振ってくる。いい反応だ。遼が大きく肩を振った。
「っ!」
 右へのフェイクに一瞬つられた瀬那をスピンでかわし、一気にゴール下までドライブする。追いつかれる前に落ち着いてレイアップで一本。パサリと軽い音を立ててネットが揺れた。
「くっ……遼ちゃん!」
「あめーよ」
 体の大きな相手とは数えきれないほどやってきた。スピードとテクニックでは誰にも負けない。
 遼は「ほらよ」とボールを瀬那に渡し、キュッと音を立ててディフェンスに入った。今度は瀬那の番だ。
「本気でいくよ」
「おう」
 腰が高い。ゆっくりとしたドリブルで様子を見ている。
 二つも下の一年生に負けるわけにはいかない。ましてや相手は、自分がバスケを教えた相手だ。遼は目を見開き、瀬那の全身の筋肉の反応に意識を集中させた。
 フェイクのやりかたは? ドリブル突破型か? パワーで押し切って来るか?
 瀬那と呼吸が合った、瞬間。
 瀬那が右に強く踏み込んだ。ドライブが来る、と遼がステップで重心を移すと瀬那はレッグスルーで方向転換をし、そのまま遼を抜き去った。
 追いつかれる前に確実にジャンプシュートで軽く一本。
 1on1は、抜くか抜かれるかの勝負だ。目の前の相手をどのようにして抜くか、頭脳とパワー、そしてだまし合いとスピードの勝負。ほんのわずかなまばたきひとつ、瞳の揺らぎでさえフェイントになる。
「ドリブルうめーな瀬那」
「練習したからね」
 体は大きいがスピードがある。筋肉のつき方がいいのだろう、動きもしなやかだ。
 こりゃあナメてかかると火傷するな。遼はぺろりと唇をなめ、次はどう攻めるかとボールをついた。


 30分たっぷり1on1を楽しむと二人はスポーツセンターを後にした。
「遼ちゃんお腹すいた」
「ガキかお前は、今何時だ」
 自転車の鍵を外しながら時計に目をやると、昼少し前だった。自分もそれなりに腹は減っているが、まだ我慢できるレベルだ。
 そういえば、朝家に迎えに行ったとき瀬那は完全に寝起きだった。何も食べていない状態で激しい運動をしたのだから、そうとう腹が減ったことだろう。
「うち来いよ。多分母さんが何か作ってる」
 家を出る時に、母が「瀬那くんと一緒ならお昼一緒に帰ってらっしゃい」と言っていた。瀬那の家でも母親が何か用意しているかもしれないが、まだ昼前だ。今のうちに連絡させればいいだろう。
「帰るまで我慢できない」
「15分くらい何とかしろ、ほら帰るぞ」
「やだ! 途中で何か食べてこーよぉ!」
「お前それ雑誌見てる女どもが見たら泣くぞ!」
 くっそこのわがままイケメン。
 イラつく遼に瀬那は、瞳を潤ませると祈るように両手を組み、上目づかいで言った。
「ジュースおごるからハンバーガーつきあって……?」
 うっ……。
 瀬那のこの顔には弱い。昔から、気が弱いくせに譲らないところは譲らないヤツだった。わがままを通したい時の必殺、泣き落としのうるうるチワワ作戦だ。
「……ったくしゃーねえな」
「やった! 遼ちゃん大好き!」
 ガバッと勢いよく抱きつこうとする瀬那を両手でガードすると遼は自転車にまたがった。
「食ったらすぐ帰るぞ。あと、うちで昼食ってくって家に連絡しとけ」
「うん」
 遼は母に「ちょっと立ち寄ってから瀬那連れて帰る」とメッセージを送り「行くぞ」と走り出した。


 ハンバーガーの店は、スポーツセンターから家までの間、駅の北口から徒歩10分ほどの所にあった。駅前にいくつかファストフードの店はあるが、昼に近いこの時間帯は、駅に近くなればなるほどどの店も混雑が始まっている。大通り沿いの交差点にあるこの店は、駅からは少し距離があることで、比較的いつもゆったりとしていた。
 あまり男子高校生が二人連れで来るような店ではない。淡いターコイズブルーを基調としたクラシックアメリカンな内装、野菜の多いオーダー制。ファストフードのハンバーガーよりも少し単価も高い。
「ここでいいのか」
「うん、俺ここ好きだよ」
 店の前に自転車を停め、カウンターで注文する。
「チーズバーガーとオニオンリング、飲み物はアイスカフェラテMで、あと」
 瀬那にちらりと目で合図され、遼はカウンターにあるメニューを見た。
 ――あんまり飲まねーけどここはアイスコーヒーとでも言っておいた方がいいな。
「アイ」
「メロンソーダのLとポテトふたつお願いします」
 は――――?
 わなわなとする遼に構わず瀬那は、アイスカフェラテとメロンソーダの乗ったトレーを受け取ると「行こ」と二階に向かった。

 二人掛けの席を見つけ、向かい合わせに腰かける。ハンバーガーとオニオンリング、ポテトは注文を受けてから作り始めるため、その間は少し時間があくことになる。
「はい遼ちゃん」
「おう」
 小さい頃から、外食で何か飲む時は決まってメロンソーダ。そんなことまで把握されている。遼は瀬那からジュースを受け取るとストローをくわえた。
 店内、周りの女子高生や大学生たちが明らかにざわざわと色めき立っている。
 ごく普通のスポーツジャージにTシャツ、スニーカー。ランニングか何かの運動帰りか、そんな格好であるのにどうしても瀬那は目立つ。
「おい」
「ん?」
「あんま残念なことするなよ。女どもの夢が壊れる」
「あは」
 瀬那はアイスカフェラテをちゅーっと吸うと、頬杖をついた。
「遼ちゃん優しい」
「優しかねーよ」
 クラッシュアイスがたっぷり入ったメロンソーダの炭酸と甘味が、疲れた体にじわじわ広がっていく。筋トレ、ランニング、それから1on1。一瞬たりとも気の抜けない緊張感の興奮、高揚。温度の上がった血液が指先にまでめぐっているのが分かった。
 まだ入学したばかりとはいえ「注目の一年生」として雑誌に載るだけのことはある。それに、また瀬那と一緒にプレイできるのは嬉しい。でも。

「なあ」
「ん?」
「お前何で急にこっち帰ってきたんだ?」
 瀬那が明らかにぎくりとした。
 核心であり、単純な疑問だ。

「何でって」
 瀬那はわざとらしくへらりと笑って言った。
「遼ちゃんとまたバスケしたかったからだよ」
「嘘っぽいな」
「嘘じゃないよぉ!」
「どーだか」と遼は唇を尖らせてジュースを吸い込んだ。
 分かっている。瀬那は嘘がつけない。頑張って嘘をついたところで、へたくそだ。だから「またバスケしたかった」も嘘ではないだろう。しかし、それだけではないはずだ。
 引っ越して二年後、父が東京に戻ってきた時、瀬那は一緒に帰ってこなかった。今回、高校入学を機にだとしても、大学付属の中学にいたのに、わざわざそこをやめてまで東京の高校に進学する理由が見つからない。
 元モデルの母親の仕事の都合か、それとも学校で何かあったのか。
 ――ま、おいおい聞いてやる。
 遼がジュースをズッと吸いながら瀬那を軽く睨むと、瀬那はふいと視線を逸らした。

 じきに、母親くらいの年齢の女性がチーズバーガーとオニオンリング、ポテトを持って来た。できたてでまだ熱い。
「いただきまーす、これ遼ちゃんのポテトね」
「おう、サンキュ」
「あ、ちょっと待ってて」
 まだ食べないで、と言い残すと瀬那は立ち上がり、ケチャップやマスタード、ガーリックオイルなどが自由に使えるように置いてあるソースバーに向かった。途端に店内の空気がざわりと動いた。
 手元は見えないが、小皿に何種類かの何かを取り、混ぜているらしい。しばらくして戻ってきた瀬那は、三枚の小皿をテーブルに置きながら言った。
「はい、遼ちゃん、俺特製のソース」
「なんだよ」
「ハニーマスタードソース。こっちはチーズも混ぜてるよ。あと普通にケチャップ」
「へえ、お前いつの間にこんなのできるようになったんだよ」
 遼は「すげえな」と瀬那の頭をぐしゃぐしゃと撫で、皮がついたままの厚切りのポテトにソースをつけて一本食べた。
「うめえな、やるじゃん」
「へへ」
 瀬那はにこにことハンバーガーにかぶりついた。綺麗な顔をしているくせにきれいに食べようという気などさらさら無いのか、一口が大きい上にゆっくりもぐもぐと幸せそうに味わって食べている。遼はバッグからスマホを取り出すと画面の時計を見た。すでに12時近い。
「お前これ、普通に帰って食っても同じ時間だったんじゃねえの?」
「いーの、遼ちゃんと二人で何か食べたかったんだから」
 遼は「あっそ」と瀬那の言葉を流すと、ポテトをつまみながら片手でスマホの画面をいじり始めた。するとポン、とメッセージが一件届いた。冬伍だ。
『3on3やってるんだけど来ない?』
 画像も一緒に送られてきた。ここから自転車で20分ほどの都立公園にあるバスケットコートで自撮りしたらしい写真だ。部活の仲間と、それから冬伍がよくつるんでいる野球部、テニス部、元バスケ部のメンバーもいる。
 呼ばれれば行かないこともないが、今さんざん緊張感のある1on1をしてきたばかりだ。それに、瀬那を連れて帰ると連絡をしてしまった。
 はぁん、と遼が画面を眺めていると、次々に動画や画像が送られてきた。ゆるく豪快にダンクを決める仲間たち、ギャラリーなのか誰かの彼女なのか、数人の女子たちと一緒にポーズを取っている写真。遼は思わず「ちっ」と口の中で呟いた。
「ウェイ系め」
「どしたの」
「瀬那、キメ顔しろ」
「ええーそんなのいきなりできないよ!」
「雑誌でやってただろ、あれだよあれ」
「無理――!」
 ハンバーガーを噛みながら焦る瀬那を一枚、ぱしゃりと撮ると遼は「連れがいるからまた今度な」と画像と一緒にメッセージを返した。
 ぽん、ぽこん、ぽん。
『イケメンくんじゃん』
『デートか』
『橘初デートおめ』
『浮気よ浮気! 冬伍泣いちゃう!』
「うぜえ」
 送られてきたメッセージをげんなりとした顔ですべて無視すると、遼はポテトをつまんだ。

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