①5話


「ただいまー」
「お邪魔しまーす!」
 玄関を開けると、家の中からソースのいい匂いがした。たぶん焼きそばだな、そう思いながら遼は玄関に荷物をドサリと置くとリビングに顔を出した。奥のキッチンでは母がじゅうじゅうと野菜をソースで炒めていた。
「遼お帰り、瀬那くんいらっしゃい」
「お邪魔します!」
 リビングでは、遼の兄の忠(ただし)がソファに座ってテレビを見ていた。
「よう、瀬那くんか! 大きくなったな」
「忠兄ちゃんは変わらないね」
「はは、五年ぶりかな、ゆっくりしてって」
「ご飯あと15分くらいだから、先にシャワー浴びてきちゃってよ」
「えーめんどくせえ」
 遼は冷蔵庫から麦茶を出すとグラスに注ぎ、瀬那に手渡した。
「汗かいてきたんでしょ、あそこシャワー無いじゃない。あ、瀬那くんも一緒に入って来たら」
「はーい」
 瀬那は素直に返事をすると「遼ちゃん行こ」と手を引いた。

 互いの家のことはよく分かっている。部屋、トイレ、そして風呂場の場所。脱衣所に入ると瀬那は機嫌よくTシャツを脱ぎ始めた。しかしどうしても肘や体のあちこちがぶつかる。
「狭ぇ」
「昔は余裕だったのにね」
 脱衣所も風呂場も、東京の戸建てにしては余裕のある広さのはずなのに、さすがに男子高校生二人同時なると狭い。遼が風呂場のドアを開けると、中は湯気でいっぱいだった。帰り時間に合わせて風呂に湯を張っていたのだろう。
「昔みてーに一緒に入んのはやっぱ無理だな、俺風呂に入るからお前シャワー浴びろ」
「うん」
 ざっと体の汗をシャワーで流してから遼は湯船に入った。まだだるさが少し残っている身体に、じわじわと熱がしみこんでいく。ざあっとシャワーから湯を出し始めた瀬那を見て、遼は思わず笑い出しそうになった。
「瀬那お前それ、シャワー低いだろ」
 壁のシャワーフックの位置が、瀬那にとっては明らかに低い。高い位置にしているものの、鎖骨のあたりに湯がかかる形になってしまっている。
「そーいやお前んちシャワーやたら高かったよな」
「うん、父さんも大きいから」
 壁にかけるのは諦めたのか、瀬那はシャワーを握って湯を浴び始めた。
「やりづらいだろ、座ればいーじゃん」
 遼は洗い場の椅子を指した。
「小さいもん」
「悪かったな一般家庭サイズで!」
 遼は手桶でバシャッと瀬那に湯をかけたが、いろいろと不便そうなのは確かだ。
「瀬那、ここ座れ。洗ってやるから」
 バスタブのふちをポンと叩くと湯から出て、シャンプーを手に取る。瀬那は素直にバスタブに腰かけると頭を差し出した。
 瀬那の前に立ち、濡れた髪に手のひらで泡立てたシャンプーをつける。地肌を揉み込むように指の腹でわしゃわしゃと洗い出すと、気持ちがいいのか瀬那が「ん」と声を上げた。
「遼ちゃんにシャンプーしてもらうの久しぶり」
「そうだな」
 中学に上がってからは部活が忙しくなり、一緒に風呂に入る機会も無くなったが、小学生の頃はよくこうして一緒に風呂に入っていた。バスケットを始めて握力のついてきた遼にシャンプーをしてもらうのが好きだったのか、瀬那は「遼ちゃん洗って」と頭を差し出しては髪を洗ってもらっていた。
「遼ちゃん将来美容師になったら」
「向いてると思うか」
「全然」
 遼は「このヤロウ」と指にぐっと力を込めて瀬那の頭を掴んだ。
「いた! いたたたた! 頭割れる!」
「美容師にはなんねーけどお前の頭ならさんざん洗ってきたからな」
「うん、美容師なんてならないでよ」
「お前言ってることバラバラだな」
「俺以外の頭洗っちゃやだよ」
「他のヤツの頭洗う機会なんてねーよ」
 遼はふはっと笑うと、勢いよくシャワーを出した。

 シャンプーを流し、トリートメントをつける。髪が短い自分には必要無いが、母と、自分よりは比較的長い兄用のものだ。
 さらさらとした髪に指を通しながらトリートメントを湯で流していると、瀬那がふと顔を上げて言った。
「遼ちゃん、ちんこ目の前過ぎてウケる」
「は―――? てめえなに見てやがる!」
 遼は瀬那の頭をはたいて怒鳴った。確かに目の前だがここは風呂だ、どうしようもない。
「もう洗ってやらねえぞ!」
「ちょっと触りたくなっちゃった」
「殺すぞ」
 遼は「ほら終わりだ」と瀬那の頭をポンと叩くとまた湯船に入った。一度入って出たからか、少し体が冷たくなっている。
「俺もはーいろ」
「無理だろ」
「入る」
 瀬那は長い脚を「よいしょ」と上げると湯船に身を沈めた。ザバーという音とともに、バスタブから湯があふれていく。
「あ、てっめ無理やり」
「えへへ」
 ……ったく、しゃーねえやつだな。
 向かい合い、体育座りでにこにこと笑う瀬那に遼は、ため息をついてばしゃりと湯をひっかけた。


「あらずいぶんゆっくり入ってたのね、もうできてるわよ」
「おばさんごめんなさい、お湯ほとんどなくなっちゃった」
 しゅんとする瀬那に、母は「あらあら」と笑うと大盛りの焼きそばの皿をテーブルに置いた。
「楽しかったんでしょう? そんなの気にしないでさぁ食べて」
「いただきまーす! わぁ、おばさんの焼きそば久しぶりだ」
「普通の焼きそばだぞ」
「俺にとっては違うの!」
 何が違うのか分からん、と首をかしげる遼に構わず瀬那は嬉しそうに焼きそばを食べ始めた。
 遼に三人前、瀬那に三人前、忠は二人前、自分は一人前。合計九人前の焼きそばを作った二つのフライパンを洗うと母は、麦茶の入った二リットルの冷水ポットを冷蔵庫から出した。
「遼と同じくらいで良かったのかしら、たくさん食べてね」
「はーい! おいしい!」
 遼と瀬那が肉を取りあいながらわいわいと焼きそばを食べていると、思い出したように忠が口を開いた。
「遼、NBAの特集動画配信始まってるぞ」
「まじで? 見る見る」
「タブレットで見られるようにしておいたから」
「えー、テレビで見せてくれよ」
 画面小さえ、と遼はふくれた。
「今日は見るモンがあるんだよ、貸してやるから部屋で見ろ」
「ちぇー。瀬那も見るか?」
「うん」
 遼は「ごちそうさま」と焼きそばを食べ終えると兄からタブレットを受け取り、瀬那に「部屋行こうぜ」と声をかけた。
 

 階段を上がってすぐの遼の部屋には、NBAのポスターが壁や天井に貼られている。床には、片づけずにそのままほったらかしのダンベルが二つ。机には教科書、ノート、棚にはバスケ雑誌。服や下着はクローゼットに収まるだけ。参考書や問題集は、見ているだけで気が滅入る、と手を出していない。
「相変わらずなんも無い部屋だね」
「お前の部屋みてーにうまいこといろいろ置けねーからな」
「写真とか無いの」
「あー、バスケ部の集合写真ぐらいだな。あとは母さんが持ってる」
 小さい頃からのアルバムや、小学校・中学校時代の写真の類は見返すことが無い。
「あっ、月バス四月号」
「お前それ載ってただろ」
「うん」
 瀬那が四月号、三月号、と指で辿って行く。背表紙がきれいなままの二月号に触れると一瞬指が止まったが、棚から四月号を抜くと、ベッドに寝転がって自分が載っているページを広げた。
「ベッド小さい」
「ほんとそのうち殴るからな」
 うつ伏せに寝転がる瀬那の頭をはたくと遼は、タブレットに指を滑らせた。
「詰めろ」
「はーい」
 ベッドに乗り上げて膝で瀬那をつつき、壁際に移動させる。寝相が悪い自覚があるため少し幅が広めのベッドにしているが、それでもやはり二人並んで寝転がれば狭い。瀬那など足首から先がはみ出てしまっている。
「お前何センチだよ」
「189」
「むかつく」
「なんで!」
 遼は瀬那を軽く蹴ると、開いた雑誌に目をやった。春休みに見たページだ。「予想進路・付属高校」の文字。
 入部初日から四日目。瀬那とは毎日登下校を一緒にしているが、突っ込んだ話は何もしていない。行きは眠気で頭がぼうっとしているし、ハードな部活の疲れで帰りのバスはほぼ寝ている。
 そんな理由でろくに話をしていないということもあるが、詳しく聞いてもいいのだろうかという気持ちもある。しかし、母の言うように「いろいろある」のだったら何も聞かない方がいいのかもしれない。
 遼は雑誌から目を離すとタブレットでNBAの動画を再生し始めた。
 NBAのレギュラーシーズンは例年、四月の上旬に終了する。リアルタイムで試合を見るのは難しいため、こうして日本語版で総集編の動画配信があるのはありがたい。
「セルティックス見られる?」
「そりゃ入ってんだろ、ほら」
 総集編の他に、各チームともシーズン中の各試合が見られるようになっている。
「つーかお前んち昔っからテレビでNBA見れんだろ、見てねーの?」
「そうなんだけどね」
 一人で見てもつまんない、と瀬那は笑って画面を眺めた。
「やっぱホーネッツの試合はちょっとテンション上がるよな」
 ターコイズブルーと濃紺、白を組み合わせたユニフォームは、武蔵野西高と同じものだ。
「それに」
「うん」
 ベンチの周りの席が映った。
「ジョーダン!」
 幼いころから憧れた、バスケットボールの神様。ホーネッツのオーナー、ジョーダンが画面に一瞬映り、二人は揃って声を上げた。
 五人でボールを回しあい、相手のディフェンスをかいくぐってゴールにボールを投げる、入れる、叩きこむ。それだけのはずなのに、こんなにも自分の全てをかけたくなるほど熱くなる。
 こんな風にプレイしたい。思うように鋭いパスを出して、相手を翻弄して抜き去って、強い当たりにも負けずにボールをネットにぶち込みたい。
「遼ちゃん、変わらないね」
「あん?」
「昔とおんなじ。キラキラしてる」
「何だよお前」
 どのツラ下げてそんな恥ずかしいこと、と言おうとして遼は息を飲んだ。
 瀬那が枕に半分顔を埋めるようにしてこちらを見ている。いつものにこにこと甘えた笑顔ではない。ほんのりと赤らんだ目元、細めたたれ目。色素の薄い瞳が少し潤んでいる。ほんのわずかに開いた形の良い唇が「遼ちゃん」と名前を呼ぶために動いた。
 見たことの無い顔、聞いたことの無い声。そこにいるのは確かに瀬那のはずなのに、何も変わらない幼なじみのはずなのに。
 遼は一度唾を飲み込むと、からかうように言った。
「何だ瀬那てめえそんな顔して、俺に惚れたか?」
「うん、昔っから惚れてる」
 瀬那は相変わらず、枕に顔を半分埋めたまま目を細めて見つめてくる。遼はうつぶせになったまま肘をついて少し体を起こすと、瀬那を上から見下ろした。
「まぁ知ってたけどな、あっは」
「本気だよ」
「ばぁか」
 遼はふはっと笑うと瀬那の頭を乱暴に撫で、またタブレットに目を戻した。
「そーいう顔は、まじで惚れたヤツにだけ見せてやれ」
「うん」
 画面では、ひいきのチームの試合の様子が流れている。もうシーズンは終わっているから結果は分かっているが、何度見ても面白い。隣で瀬那がふっと息をついたのが聞こえたが、遼はかまわず画面に食い入るように見入った。

 総集編と、飛ばし飛ばし三試合ほど見たところで、遼は「ふぁ」とあくびをした。試合は面白いが、午前中にだいぶ体を動かした疲れが来たのだろう。
「眠ぃ」
「俺もちょっと眠い」
「少し寝るか」
「うん」
 二人で並んで仰向けになって寝るのには、このベッドは少し手狭だ。遼はごろりと横向きになると、瀬那にも「こっち向け」と声をかけた。

 顔が近い。何か肌に気でもつかっているのか、でこぼこのないつるりとした頬、綺麗にとおった鼻筋、口元。自分と同じ匂いのする髪に指を差し入れると遼は、瀬那の頭の形を確かめるようにしてゆっくりと撫でた。
 瀬那は、遼に髪を撫でられると気持ち良さそうに目を閉じた。

 あの小さかった瀬那がな。

 悔しいがいい男だ。自分よりもはるかに大きな体、一年生にしてすでに雑誌に載るほどに注目されている実力。自分も中学時代、都内ではそれなりに活躍はしていたが、全国的に注目されるほどではなかった。ポイントガードとして雑誌に取り上げられるようになったのも、高校に入って血のにじむような努力をしてきてからだ。
 追い越されていくのも悪かねーが、まださせねーよ。
 遼はタブレットのアラーム機能をセットすると目を閉じた。


 ピピピ、というアラーム音で目を覚ました二人は、向かい合ったまま軽くのびをした。
「瀬那お前重いだろ、腕乗せんなよ」
「あは、ごめん」
 そう言いながら遼は、片足を瀬那の太ももに乗せていた。
「遼ちゃん相変わらず寝相悪い」
「良くなったほうだぞ」
 遼は唇を尖らせると「よっ」とベッドから飛び降りた。まだ外は明るいが、そろそろ五時近い。
「夕飯食ってけば?」
「ありがと、今日父さん帰って来るから外で食べる約束してるんだ」
「そっか、じゃあまた今度な」
 プロスポーツ選手だった瀬那の父は、今はチームのコーチをしている。遠征が多いが、日曜か月曜日に帰って来ることが多い。平日夜、たまに見かけることもあった。久しぶりに家族そろっての外食になるのかもしれない。瀬那は階段をタンタンと下りるとリビングに顔を出し、遼の母と兄に声をかけた。
「お邪魔しました! おばさん、焼きそばおいしかった! 忠兄ちゃんまたね」
「あらぁ帰っちゃうの? また来てね」
「もうすぐ試合だろ、ユニフォームもらえるように応援してるから」
 遼は瀬那と一緒に玄関を出ると、瀬那の家に目をやった。今日は電気がついている。
 あ、瀬那の父ちゃん帰って来てんだな。遼はほっとすると門に手をかけた。
「じゃあまた明日ね」
「おう」
 別れる時はいつもどこか少し寂しげな瀬那の表情が明るい。遼は瀬那を見送ると家に入った。
 その日の夕飯はロールキャベツで、遼と忠は母に
「あんたたちも、瀬那くんみたいにおいしいおいしいって食べなさいよ!」
 と頭をはたかれた。

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