「高校、ほんとは付属に進むの決まってたんだ」
「そうだってな」
「でも」
瀬那は、テレビ横の棚から一冊の雑誌を抜き取った。
「これ、見たんだ」
表紙をスッと差し出され、遼は眉を寄せた。
月刊バスケットボールの二月号。自分でもこの号はもちろん持っているが、一瞬ぱらりと見ただけでそれ以来開いていない。
今でもあの屈辱を忘れることはない。雑誌には「王国崩壊」と大きく書かれ、写真も載った。正面から向き合って乗り越えるなどというのはきれい事だ。傷は癒えることなく、戒めとしていつまでも自分の中に残っている。
見たくはない、が。
「……情けねえだろ」
はっ、と笑うと瀬那から雑誌を受け取り、思い切ってぱらぱらとめくる。よりによってこの号か。他の月にはいい扱いで載っていることもあるのに。
高校・新人大会。ウインターカップベスト4武蔵野西高校、初戦に沈む。
試合終了の瞬間の写真だ。コートに倒れ込み、泣き伏している冬伍。その横で、何があったのか理解できずにただ会場の天井を見上げている自分。この日のビデオだけはまだ見返せる気がしない。
「こんな顔してたんだな」
遼は雑誌を閉じてテーブルの上に置いた。
「それ見て俺、そのまま母さんに頼み込んだんだ」
「東京に行きたいって?」
「うん、でもまともに聞いてなんかもらえなかった」
「そうだろうな」
月刊バスケットボールの発売はその前の月の下旬。二月号は、一月の下旬に発売される。多くの高校で一般入試の願書提出が始まる頃だ。併設高校であれば、すでに進路が決まっていた時期だろう。
付属の高校にとっても、戦力となる貴重な選手だ。親からしても、そのまま大学まで進めるのであればと思っていたに違いない。
それにしても話が飛躍しすぎる。試合に負けた幼なじみの写真を見ただけでそんなことを思うだなんて。遼は首をかしげるとテレビのスイッチを切った。
「来るったって、ただ休みの日に遊びに来るとかでも良かったじゃねえか、こっちに家もあるし」
「母さんにもそう言われた」
「だったら」
「それじゃやだったんだ!」
瀬那がタオルの両端を強く握った。
「それじゃ結局九州に帰ることになるじゃん、そんなのやだよ!」
「瀬那」
分からない。元気の無い幼なじみを見て、会って話して元気づける、それだけではだめだったのか。
うつむき、裸足のつま先を見つめて瀬那は絞り出すように続けた。
「父さんに電話して学校のこと調べてもらって、学校の先生に頼み込んで、部活の先生にも仲間たちにも謝って、母さんには内緒で受験したんだ」
「お前……」
「それが二月」
瀬那の父は昔から「ちゃんと考えた結果なのであれば」と悪いことでなければ大抵のことは許してくれた。瀬那の真剣さに折れたのだろう。
「もちろん母さんとは大喧嘩だよ。でも、いくつか条件を出された」
「条件?」
「母さんは仕事の関係で東京には行けない、だからほとんど一人暮らしになること」
寂しがり屋で甘えたな瀬那が、家に一人。
「それから、俺が小さい頃からの母さんのお願いを聞くこと」
「おばさんの?」
瀬那が小さい頃から母にずっと言われていたこと。
何だ? 何を条件に出された?
「まず雑誌の取材を受けて、顔を売ること。それから、東京で母さんに紹介されたモデルの事務所に入ること」
遼ははっと顔を上げた。女子が持っていた雑誌の特集ページ。
「仕事は部活が休みの月曜日。モデルをやって、もらったお金がお小遣い」
月曜日、瀬那は用事があると言っていた。
「絶対絶対嫌だったけど、それが母さんからの条件だったから」
すとん、とひとつ何かが胎に落ちた。雑誌で笑う瀬那を見た時の違和感だ。
あんなに、人前に出たり写真を撮られたりするのが嫌いだった瀬那が、まるで彼女とでも一緒にいるような笑顔で雑誌に載っていた。
取材を受けるはずがない、それにこんな笑顔で写真を撮られるはずがない。そう思っていたのに、雑誌の中や動画で見る瀬那は自然な姿だった。
「好きな人と一緒にいるイメージでって言われたから俺、遼ちゃんのこと思って頑張れたんだよ」
なるほど、自分と遊んでいると思えば少しは気が紛れただろう。
しかしそれでもまだ完全には納得できない。写真の中の瀬那、あんな顔の瀬那は見たことが無い。
――あんな顔。
ほんのりと赤らんだたれ目を細めて、形のいい大きな口をきゅっと上げて、まるで本当に、恋する相手が目の前にいてデートしているような顔をしていた。
あれは、幼なじみに対してする顔ではない。
「これがだいたい全部。分かってもらえた?」
話の流れは分かった。けれども、肝心な所がまだだ。
「だいたいは分かったけど、ちゃんと説明しろ。何でそこまでした?」
「遼ちゃん」
「おばさんと喧嘩して、進路も向こうの部活も捨てて、恥ずかしくて断ってた仕事まで受けて、普通幼なじみのためにそこまでしねえだろ」
そうだ。いくら小さい頃べったりくっついていたとはいえ、たかが幼なじみだ。もう丸四年会っていなかった。手紙はもちろん、電話さえしなかった。存在を忘れていてもいいくらいだ。良くて、バスケットをしている時に「そういえば」程度に思い出すくらいだろう。
事実自分だって、もし瀬那が同じ状況だったとしても、そこまではできないだろう。
「……だって俺、遼ちゃんのこと好きだから」
「おう」
大好き、遼ちゃん大好き。
小さい頃から瀬那はそう言っていた。大好きな幼なじみ。今でもことあるごとに「遼ちゃん大好き!」と面と向かって言ってくる。
だけど。
「遼ちゃんのそばにいたいって思ったんだ」
分からない。
「俺が一緒だったらこんな顔させない、こんな思いだってさせない、そう思って」
分からない、瀬那の言っていることが分からない。
「俺が泣いてる時、遼ちゃんいつもぎゅってしてくれたじゃない」
確かにしていた。泣き虫な瀬那を抱きしめて「もう泣くな」と頭を撫でてやっていた。
「好きなのは知ってる。俺もお前のこと好きだぜ、瀬那。それは分かってんだよ、俺が聞きたいのはそうじゃなくて」
「分かってない!」
瀬那はイラついたように叫ぶと、遼を正面から強く抱きしめた。思わぬことに遼は、思わず一瞬息を止めた。しかし、こんなことはもう数回目だ。
「遼ちゃん、遼ちゃん……!」
「何だ瀬那てめえまたか。苦しいっつってんだろ」
遼は「放せ」と瀬那の背中をぽんぽんとなだめるように叩いた。
「……遼ちゃん、好きだよ」
「分かってるって」
だから放せ、と遼が言いかけた瞬間、瀬那が軽く投げるようにして遼をソファにドサリと押し倒した。大柄な大人の男が三人は座れる、大きなソファだ。
「え?」
何があったか分からない、と仰向けになったまま目を丸くする遼の上に瀬那はギシリと、四つん這いになって覆いかぶさるように乗り上げた。人の良さそうな眠たげなたれ目は鋭く、しかしどこか悲しげだ。軽く開いた唇から熱い息が漏れている。
瀬那じゃない。瀬那なのに、この顔は知っている瀬那じゃない。
「な、……んだよ」
まずい予感がする。遼はごくりと唾を飲むと、体を起こそうとした。
「逃げないで」
瀬那が遼の手首を掴み、ソファにぐいと押し付けた。ギッと骨がきしむような痛みに遼は思わず顔をしかめた。
「いってぇな、何だよ!」
「遼ちゃん、分かってないよ」
「何がだ」
「俺の気持ち」
瀬那の気持ち? 何のことだ。
遼は、丸くした目をさらに丸くした。
「な、ん」
「分からせてあげる」
瀬那は目を閉じると首を傾けて、目を開けたままの遼の唇を、下から掬うように塞いだ。
「……っ?」
遼の身体がびくりと震えた。
――何だ? 瀬那、俺に何してる?
閉じた目の長いまつ毛、グレーがかった濡れた前髪、冷たくつるりとした頬、見たこともない距離でそれらがある。唇に、感じたことの無いやわらかさと熱。
これ、何? ……瀬那、何してる?
「遼ちゃん」
深く塞いだ唇をわずかに離し、熱く囁いてはまた重ねる。
「好きだよ」
角度を変えて、もう一度瀬那は深く唇を塞いだ。
浅く、深く何度も唇を重ねる。ちゅ、とついばみ唇を軽くつけたまま、息だけの声で「大好き」と囁く。下唇をはむ、と軽く噛まれ、遼は思わず頭がくらりとするのを感じた。
ちょっと待て、瀬那。何だこんなの、聞いてねえぞ。
そう言って今すぐにでも思い切り殴って押しのけたいのに。
「目、つぶって」
ちゅ、ちゅと音がするたびに、全身の力が抜けていく。言われるがままに目を閉じる。ほんのわずかな音のはずなのに鼓膜に直接響いてくるようだ。
「……ん、ふぅ……っ」
冷たい手のひら、熱い息、知らない。こんな瀬那は知らない。
嫌だ、こんなのは嫌だ。
「ん、……んっ!」
それでも、このままじゃ。どうにかしないといけない、でも、何をどうする?
「瀬那、や……」
かすれた声でやめろ、と遼が言いかけた瞬間、ふっと瀬那の手の力が弱まった。
抑え込まれた手首を振りほどき、手のひらで強く瀬那の胸板を押し返す。唇が離れた。すぐに体を起こして手の甲で唇をぬぐう。
「遼ちゃん」
「瀬那てめえ! 何しやがる!」
可愛い弟のような幼なじみだと思っていた。まさか自分に対してそんな気持ちを持っていたなんて、と裏切られたような悲しみと怒りと、どうして気付いてやれなかったんだと自分を責める気持ちが渦巻いている。
「……ごめん」
「謝るくらいなら初めっからすんじゃねえよ!」
ドンと肩を押して瀬那の下から抜け出し、ソファから立ち上がる。脳に酸素が行きわたっていないのか、少しくらりとした。
「冗談にしちゃあ笑えねえぞ」
「本気だよ」
はぁはぁと大きく肩で息をする遼を、瀬那はソファに腰かけたまま下からじっと見上げた。
「本気って、お前」
「遼ちゃんのことが好きなんだ」
「瀬那」
「ずっと」
手首を掴まれ、思わず遼はかぁっと顔を赤くした。
気づかなかった、気付いてやれなかった。気持ち悪いとも嫌だとも思わない。ただ、どうしていいのか分からない。
自分も瀬那のことが好きだ。けれども、そういう『好き』じゃない。
「瀬那、てめーの気持ちには応えらんねえ」
「遼ちゃん」
「お前が俺をどう思おうとかまわねえ、でも俺にとってお前は、ただの幼なじみだ」
荒らげそうな声を必死に抑え、遼は瀬那を睨み下ろした。
「それに」
遼は、テーブルに置いた雑誌に目をやった。
「俺にそんな思いはさせねえって? 思い上がってんじゃねえ」
「っ、ちが」
「違わねえだろ」
瀬那の手を振りほどくと遼は、リビングを出ようと歩きかけた。
「遼ちゃん待って!」
「瀬那、俺は多分明日、スタメンじゃねえ」
背後で瀬那が息を飲んだのが分かった。
「でも、試合には絶対出てやる」
そう言い残すと遼は瀬那の家を出た。
瀬那の家の玄関から自分の家の玄関まで、ほんの十数秒。そのくらいしか無いはずなのに、はるか遠くに感じる。体が重い。
「ただいま」
「あらお帰り遼、早かったわね」
「うん」
「瀬那くんの家でテレビでも見てくるかと思ってたわ」
母はそう言って夕飯の支度を始めた。兄は相変わらずのんびりとテレビを見ている。いつもどおりの風景だ。
瀬那はこうではない。いつも一人で起きて、学校へ行って、「おかえり」の無い家に帰る。たまに帰って来る父と食事をして、そしてまた一人になる。
「先にお風呂入っちゃいなさい」
「うん」
遼は風呂場に向かい、練習の汗でまだ少し湿っているTシャツとジャージを脱いだ。開けっ放しのバスタブからは湯気がもうもうと出ていて、遼は曇った鏡をきゅっと指先で一度拭いた。
「情けねえツラしてんな、おい」
強めに出したシャワーで体の汗を流し、熱めの湯に肩までつかる。デジタルで見る風呂の温度は同じなのに、いつもよりも不思議と、ぬるいような気がする。
瀬那にもはっきりと伝えたが、気持ちには応えられない。これまでどおり変わらず、幼なじみとして接するだけだ。あのおとなしかった瀬那がそこまでの行動を取ったことに対しては、できる限りこたえてやりたいとは思う。
けれども今の自分は瀬那を、幼なじみとしてしか見ることができない。
遼は指先で唇に触れた。
瀬那に唇を食まれ、甘く噛まれた。瀬那の熱い息と「遼ちゃん」という囁きが、まだ耳に残っている。
見たこともない顔、聞いたこともない声だった。
部内やクラスで、冗談や罰ゲームでキスをされることはこれまでにもあったが、あんな風にされたことは無かった。
初めてのキスに何らかの理想を持っていたわけではないが、まさかこんな風に奪われるなどとは思ってもみなかった。
「よりによって瀬那かよ」
まさか、人生初めてのまともなキスをこんな形で奪われることになるとは夢にも思わなかった。ノーカウントにするにはあまりにも強烈過ぎて、そして瀬那が本気で、必死過ぎて、とても無かったことにはできない。
――あのバカが。突っ走りやがって。
「……ったく、責任取れっつーの……」
遼は天井に向かって呟くと、ざぶんと音を立てて湯に顔を突っ込んだ。