①9話


 翌日は、朝から曇りだった。
 普段よりも少し遅め、八時に目を覚ますと遼はのそのそとベッドから出てカーテンを開けた。ここから体を大きく乗りだせば、瀬那の部屋に声をかけることもできる。
 瀬那は昔から少し寝坊なところがある。試合当日、まさか寝過ごすなどということは無いだろうが。
 窓を開けようとしたところで、遼ははたと手を止めた。
『遼ちゃん』
 聞いたことの無い声で自分の名前を呼ぶ瀬那の顔が突然思い出され、遼は慌てて手で口を塞いだ。じわじわと顔が熱くなってくる。
 この口に、瀬那が。
「あの野郎……」
 いっそ気持ちを全部はねのけて「知らねえ」と突っぱねてしまうことができたら楽だろうに。
 遼はふうっと大きく息をつくとカーテンを握りしめた。
 突然好きだと言われても、今まで瀬那をそんな風に見たことはなかった。
「くっそ……」
 どうすりゃいいんだよ、とつぶやくと遼は、カーテンを閉めてどさりと床に座り込んだ。


「行ってきます」
 遼が家を出ると、ちょうど同じタイミングで隣の家の玄関が開いた。
「あ」
「あっ」
 瀬那とまともに顔を合わせるには、まだ心の準備ができていない。遼はふっと目をそらすと門を閉めた。
「おはよ」
「おう」
 どういう顔をすればいいのか分からない。
 バス停までは、ゆっくり歩いて五分。バスに乗ってしまえば周りに人が必ずいるが、この五分くらいは、誰に会うこともない。
 普段なら「ねえねえ」と話しかけてくる瀬那が無言だ。遼はちらりと瀬那を見上げた。
 悔しいけれども、13センチの差は大きい。バスケ部としては大柄な部類には入らない自分からは、正直瀬那の体格は羨ましい。
 あらためて見ると、まつ毛の長さがよく分かる。まっすぐに通った鼻筋、大きな口に薄めの唇。普段と変わり無いようにしていても、しゅんとした雰囲気は隠せない。緊張しているのだろう、表情がかたまったままだ。
 何も話さないままバス停に着いた。日曜の昼。駅に向かう人はこの時間いない。
 まだ部のジャージができていないから、瀬那は制服だ。足もとは学校の革靴。綺麗にプレスされたシャツに、ゆるく締めたネクタイ。ネクタイがゆるいのは、洒落っけを出しているのだろうと思っていたが、おそらく締め方がうまくないからだ。顔が良いから何をやってもサマにはなっているが、よくよく見ればこういう部分がおかしかったりする。
 ……まったく、世話をかけやがる。
「瀬那」
「えっ?」
 半分ひっくり返った声を上げた瀬那を見上げると遼は「こっち向け」とネクタイを引っ張った。しゅるりと一回ほどき、手際よく結び始める。
「こうだよ、ここを、こう」
「うん」
「ゆるくしてえんだったら、ここから、こう」
 ボタンを開けてやり、ちょうどいいようにネクタイを少し緩める。
「ったく、もう入学して二週間だろ、そろそろ慣れろ」
「うん」
 教わりたくても母はおらず、父は滅多に家に帰って来ない。そんな小さなことでも、気付いてやれなかった自分が腹立たしい。
「瀬那」
「ん」
「無かったことにはしねえから」
「遼ちゃん」
 瀬那の気持ちに応えることはできないが、受け止めることはできる。自分のためにそこまで思い切った瀬那の行動と思いを無視することはできない。
「昨日のあれも、お前の気持ちも、無かったことにはしねえよ」
「……ありがと、遼ちゃん」
 結局のところ、何があっても、何をされても、瀬那のことがかわいい。
 遼はジャージのポケットに手を突っ込むと、ふっと息をついて目を閉じた。


 学校に着いたのは予定通りの時間だった。集合の12時には十分間に合う。二人は部室に荷物を置き、ユニフォームに着替え始めた。
 レギュラーたちはまだ来ていない。いつもどおりであれば、時間ギリギリになってドヤドヤと現れ、台風のように着替えて去っていく。
「みんな遅いね」
「そのうち来んだろ」
 家から着てきたTシャツとハーフパンツを脱いで、試合用のインナーシャツとスパッツタイプの下着に履きかえる。気持ちがいい。ぴったりとした生地が体を覆うと自然と「これから試合だ」と気分が高まって来るのを感じる。試合用の正式なユニフォーム、白地に濃いターコイズブルーのラインと「武蔵野西4」の文字が、気持ちをぎゅっと引き締める。
 遼は瀬那にちらりと目をやった。試合用のインナーに着替えるためにシャツと下着を脱いだ上半身裸姿だ。
 綺麗に整った顔とは似合わないほどの太い首から肩へのなだらかなライン、普段着ているTシャツでは隠れて見えない肩と上腕の筋肉。胸はまだそれほど厚くは無いが、しっかりと割れた腹筋とちょうどいいバランスだ。薄めの腰、まだ完全には仕上がっていない背中。がっちりとはしていないが、瞬発力とバネの強そうな身体をしている。
 綺麗だな。遼は素直に見とれた。
 ぴったりとしたスパッツタイプのアンダーに、下半身の筋肉の影が薄く浮かび上がる。腰骨、小さめだがバランスが良く、筋肉でキュッと上がった尻、――それから。
「……遼ちゃん」
「え?」
 突然呼ばれ、遼は思わずびくりとした。
「あんま見ないで。勘違いしそうになっちゃう」
 眉を下げて困ったようににっこりと笑いながら瀬那は言った。
「……あ、悪ぃ」
 まずった、瀬那を困らせた。
 遼がうつむき目を逸らした瞬間、勢いよくドアが開きレギュラーたちがどやどやとなだれ込んできた。ちょうど同じ電車のタイミングだったのだろう。思わずめまいがするほどに空気が暑苦しくなる。
「うい――――す!」
「いよ―――――早いな橘!」
「おめーらが遅いんだよ! とっとと着替えろ!」
 レギュラーたちは入って来るなり勢いよくロッカーを開け、わいわい騒ぎながら着替えを始めた。
 良かった。遼は少しほっとして息をついた。
「おっ、五十嵐いい身体!」
「いい感じの腹筋してんじゃん、ちょっと触らせろよ」
 上級生たちが瀬那を取り囲み、壁際にじりじりと追い詰める。着替え途中でまだ半裸の者も多い。軽くあしらえばいいものを、「遼ちゃん助けて」という顔でこちらを見ている。状況は違うが、小さい頃と同じだ。いくら体が大きくなっても根っこのところでは変わらない。
 やっぱ、ほっとけねーんだよな。
 遼は部員たちの首を掴み、瀬那から引きはがしながら怒鳴った。
「コラァ! てめーら瀬那に触るんじゃねえ!」
「橘お前、かーちゃんか!」
「過保護!」
「モンペ!」
「うっせえ早く着替えやがれ!」
 裸のままの尻にバッシュでドカッと蹴りを入れると遼は「まったく」とレギュラーたちをぎろりと睨んだ。

 体育館に向かうと、すでに試合の準備が進められていた。
 床を拭き、ボールを磨いてエアーを入れ直す。試合に必要な用具を用意し、チェックする。
 氷のう、塩分、飲み物、軽食。各自で持って来たものには名前を書き、用意したものとは別に保管しておく。三人の女子マネージャーが細かい仕事を請け負い、レギュラー以外の部員が誰でもできる仕事を手分けしておこなう。高校生ともなれば親が手伝うこともなく、顧問の指導の下、部員たちが率先して用意を進めることになっていた。
 集合の12時。レギュラーたちはユニフォームの上にジャージを羽織い、軽くウォームアップを始めた。
 身体が重い。パシンとパスを受け取りレイアップでシュートを決めながら、遼は眉を寄せた。色々なことがあったがそれは言い訳にできない。三か月前のことを消化しきれていない自分のせいだ。
 部員たちが集められ、スターティングメンバーが顧問から発表された。
「ポイントガード、秋葉」
 名前は呼ばれなかった。
 分かってはいたもののやはり少しきつい。遼は唇を引き結び、目を閉じた。
 試合に出るチャンスはいくらでもあるが、キャプテンである以上はやはりスタメンで出たかった。しかし、顧問の決定は絶対だ。
 相手校が来るまで各自ウォームアップを指示されいったん解散になった。
「橘」
 コーチだ。
「テンションを途切れさせるなよ」
「はい」
 いつ声がかかっても大丈夫なようにしておくこと。それがベンチメンバーの役割だ。じき、相手校がやってきた。同じくシード校の鷹乃森高校だ。スポーツ強豪校で寮制度。関東の各地から優秀な人材を集めているらしい。特にバスケットボール・バレーボール・剣道部が名高い。
「今日はよろしくお願いします」と顧問同士が握手をし、更衣室となる部室へ案内する。
「強そうだね」
「ああ、つえーな」
 瀬那はずっと九州にいたから鷹乃森の試合を見たことはないはずだ。西高と同じく、ラン&ガンで攻めることもできれば一本じっくり大事に攻めることもできる。練習相手としては申し分ないだけに、こちらも全力を尽くしたい。
 ボールをパスしながら、冬伍が声をかけてきた。
「俺だけじゃ正直きつい。さっさと戻ってこいよ」
「ああ」
 けれども、決めるのは監督やコーチだ。自分じゃない。遼は強くボールを二度つくと外側のラインからシュートを放った。ボールはネット上部の枠にガンとぶつかり、そのまま外れた。



 試合が始まった。鷹乃森高校は黒ベースに赤のラインが入ったユニフォームだ。黒の靴下、黒のバッシュ。体格の良い選手が多く、威圧感がある。
 まずは従来通りのレギュラー・スタメンで様子を見る。遼は瀬那とベンチに座り試合を見守った。
 スローペースで静かな立ち上がり、予想どおりだ。体育館の二階のギャラリーがいつもよりも明らかに多い。試合には出ていないものの新一年生の親兄弟、それから学内外問わず女子。どこから情報を聞きつけてくるのか、瀬那が目当てだろう。上からカシャカシャとスマホのシャッター音が聞こえる。
 兄と母の姿も見えた。見に来なくていいといつも言っているが、兄の忠は練習試合であっても楽しみな顔をして毎回やってくる。
「忠兄ちゃん来てるね」
「ああ」
 兄はバスケット経験者ではあるものの西高のOBではないから、試合を観客目線で気軽に見られるのだろう。けれどもたいていの場合、家に帰ってからねちねちと試合の揚げ足を取られる。
「どーせ後で、スタメンじゃなかっただのなんだのって言われるんだぜ」
「あは、厳しいね」
「性格歪んでんだよ兄貴は」
 遼は顔をしかめるとコートを見つめ「ディフェンス!」と声を張り上げた。

 実力が近いチーム同士、ゆるいペースではあるが点を取ったり取られたりの攻防が続く。試合の流れを変えるために攻勢に出たいところだが、慎重なペースの冬伍に無理をさせることになる。
「五十嵐、第二クォーターから行くぞ」
 第一クォーター残り一分、監督が瀬那に声をかけた。
「引っ掻き回してこい」
「はい!」
 瀬那が入る。心臓がどくりと大きく動いた。
 第一クォーター終了のホイッスルが鳴った。二分のインターバルの間に水分補給と反省、第二クォーターの試合運びを指示する。
「第二クォーターは五十嵐を入れる。秋葉、少し攻めていけ」
「はい」
 スポーツドリンクを飲んで口元を手の甲で拭いながら冬伍が答えた。やはり少しきつそうだ。自分さえもっとしっかりしていれば強気に攻めに出られるのに。遼はぐっと唇を噛みしめるとうつむいた。
 ホイッスルが鳴り、第二クォーターが始まった。しかし、試合を動かすために投入された瀬那が自由に動けていない。慎重派の冬伍が、速攻に変えて攻めてきた相手にディフェンスに回っている。
「オフェンス! 攻めろ!」
 コート上の五人が五人とも、互いに気を遣っているのがわかる。
「橘、この試合どうなると思う」
「まずいと思います」
 腕組みをしたコーチが静かに聞いてきた。
 練習試合はあくまでも練習だ。しかし、負け方によっては翌週にある本番の大会に影響を及ぼすことになる。
 どうして自分はいつまでも立ちあがれないんだ。このままではまた三か月前と同じだ。シードで出場して、実力を出せずに負けることになる。先輩たちの顔と学校の名前に泥を塗ることになる。
 第二クォーターが終わった。じりじりと差が開いていく。けれどもまだ十点差。普段の攻め方であればすぐに逆転できる点差だ。攻めることもできるがどちらかと言えばディフェンス型の鷹乃森の、隙をついて一気に攻め込むことができたなら。
 ハーフタイム、メンバーの言葉が少ない。そして冬伍は、思い切った作戦が立てられない自分に苛立っている。
「……遼ちゃん」
 瀬那が汗を拭きながら呟いた。
「助けて」
「瀬那」
 ホイッスルが鳴り、第三クォーターが始まった。
 攻めあぐねている。このままでは、せっかくの練習試合なのに得るものはない。そして自分もキャプテンとして、そしてプレイヤーとしても成長できない。
 遼は前のめりに腰かけ、組んだ両手にぐっと力を入れた。
 情けない、自分はどうしてここにいるんだ。
 苛立ちが高まってくる。心も体も落ち着かず、心臓が妙な動きをしている。どくりと大きく拍動しては、遠慮するように一つ飛び、そしてその分を取り返すようにまた大きく動き、血を送り出している。
 ―――逃げてるのか?
 ふと、周りの音が聞こえなくなった。空気が止まり、足もとがふわりと浮かぶ。キュッとバッシュが床をこする音も、ダムダムとボールが弾む音も、何も聞こえない。
 瀬那が一瞬こちらを見た。どくりと心臓から熱い血が流れ、遼は息を飲んだ。
『遼ちゃん、助けて』
 瀬那を助けたい。
 あいつを自由に動かしてやりたい。気持ちよく受け取れるパスを出して、ゴールへまっすぐ突き進むルートを作ってやりたい。
 点を取りたい、自分がコートに立って、全力でプレイしてただ勝ちたい。
 歴史も、伝統も知らない。OBや観客の期待もプレッシャーも知ったこっちゃない。
 ひたすらわがままに、自分の好きなように、自分が楽しめるように、自分が気持ちよくなれるようにプレイしたい。
 逃げるんじゃねえ、俺の心臓。高鳴れ、戦え、爆発しろ。
 もっとだ、もっと熱くなれ。
 こんな逃げ腰な エスケイプ ビートなんざお呼びじゃねえ。

 トクトク、トクトク、……ドクン!

「監督」
 ベンチから立ち上がると遼は、監督に声をかけた。
「行かせてください」
「……行けるか」
「はい!」
 その時、ピッと鋭く笛が鳴った。三秒バイオレーション。プレイの時計が止まる。
 監督が審判に合図をし、遼はユニフォームの上に着たTシャツを勢いよく脱いだ。
「メンバーチェンジ、白、4番!」
「遼ちゃん!」
 相当キツいマークがついていたのだろう、流れる汗をユニフォームで拭く瀬那の顔がぱぁっと分かりやすく明るくなった。
 ――ったくあの野郎。
 交代を告げられた選手とすれ違いざまにハイタッチを交わしてコートに入る。
 もう第三クォーターも終了間際だ。第四クォーターに入ってからでは遅い。一本集中などとは言っていられない。
「おせーよ、もう無理かと思ったじゃん」
「悪ぃ」
 ピッと笛が鳴った。試合再開だ。遼は冬伍からボールを受け取ると、低く言った。
「――援護しろ」
「了解」
 冬伍が安心したようににっと笑った。
 ダム、ダム。低い姿勢でゆっくりボールをつき、コート全体を見回す。落ち着け、心臓。熱くて冷たい血を流せ。今、メンバーはどの程度疲れてる? 相手は? どこが穴だ?
 ……見つけた。
「走れ!」
 遼が叫んだ。
 弾かれたように四人が一斉にゴールに向かって走る。
「ディフェンス!」
 相手ベンチから声が飛ぶ。守らせない、一点突破のラン&ガンだ。誰で行く、ゴール下。
 瀬那、速い。
「瀬那!」
 遼が全力で強いロングパスを出した。受け取り、フェイントとターンで一人振り切る。ドリブルがうまい。そのまま周囲を見ることなく、ゴールに向かって高く跳んだ。
「ブチ込めぇ、瀬那!」
 ガツン、とゴールが揺れるほどの勢いで瀬那がダンクシュートを決めた。ダンと床に降りてからも、まだゴールがゆらゆらと揺れている。一瞬の静寂の後、体育館が歓声で大きく揺れた。
「気ぃ緩めんな! オールコート!」
「くそ―――! 入るなり鬼!」
「うっせえ! スティール狙え!」
 この攻撃のリズムの差にまだ相手がついてこられないうちに、たたみかけてやる。
 積極的にボールを取りに行く。パスミスを誘い、リバウンドを奪い、そしてまた速攻で叩く。相手の動揺が面白いくらいに伝わってくる。これだ、楽しい。身体が熱くなってくる。
 超攻撃型のポイントガード、必要とあらば自分も内側に切り込み点を取る。外から冬伍、中には瀬那。守るためのガードじゃない。味方を生かして助けるためのガードだ。
「立てなおせ!」
 やらせない。
「冬伍!」
 内に人数を集め引き寄せておいて、外から冬伍が三点を取る。チャラい見た目に反して、毎日コツコツ練習してきたロングシュートだ、決まらないはずがない。あっという間に点差が縮まっていく。
 第三クォーターが終わった。インターバルは二分、そして最終決戦の第四クォーターになる。
「このまま攻めろ。橘、秋葉、いつもどおりに」
「はい!」
 相手の出方に応じてポジションをスイッチする。いつもの攻め方だ。
「おいてめーら、話がある」
 スポーツドリンクをガブ飲みし、手の甲でぐいと口を拭きながら遼は言った。
「第四クォーター、好きに動け」
「はぁ? いいのか橘!」
「ああ」
 遼はにやりと口角を上げた。
「お前らがどんなに勝手に動いても、結局は俺に動かされてんだって分からせてやるよ」
「ずいぶん自信あるじゃん」
 冬伍はふっと笑い、薄切りのレモンを口に運んだ。
「けど、それでこそ遼だ」
「ああ」
 自分のプレイを殺して味方に尽くすことなどできない。
「自分勝手なお前らを束ねられんのは俺くらいなもんだろ」
 そう言うと遼は立ち上がり、ベンチで息を整えている四人の頭をはたき、見下ろした。
「いいから俺の言うことを聞きやがれ」
「ひでえな独裁者ポイントガード!」
「暴君キャプテン!」
「はん、何とでも言え」
 腕を組み、堂々と言い放つ。
「残念ながら、俺はお前らよりもはるかにわがままだからな」
 遼の言葉に、コーチが満足そうにふっと笑った。
 わがままであれ、と桐山コーチは言った。尊敬する、冷静で圧倒的なリーダーシップのあった桐山キャプテンは、後輩たちの知らないところでわがままだったのかもしれない。遼はふはっと笑うと一度全員を見渡し、ゆっくり口を開いた。
「お前らの全部、俺に預けろ」
「きゃああああかっこいい!」
「痺れる!」
「激しく抱いて!」
「てめーら殺すぞ!」
 時間だ散れ! と三人の尻を思い切り蹴りあげると遼は、まだ座って息を整えている瀬那に目をやった。何だかんだ言っても、つい先日まで中学生だった一年生だ。体力が限界に近いのか、ベンチに腰掛けはぁはぁと荒い息をついている。水分、クエン酸、いくら摂っても間に合わない。
「瀬那」
 血が熱い。これが自分のバスケだ。しばらく忘れていたそれを、瀬那が思い出させてくれた。
『俺がいるから大丈夫だよ』
 そういうことか、瀬那。お前がいて、俺は完成される。お前が一緒にいてくれるから、俺は戦える。お前がいなかった四年間、そのことに気づかなかった。
 遼は瀬那の隣に腰かけると頭をぽんと叩き、正面を向いたまま囁いた。
「瀬那、俺がお前を守ってやる」
 今までも、これからもずっと。
 そして、お前も俺のそばにいろ。俺のことを守れ。
「……遼ちゃん」
 自己犠牲でもない、我慢でもない。自分が瀬那を引っ張り、守ってやる。瀬那が自由に動けるように、パスのルートを作り、相手のディフェンスを動かし、気持ちよくコートを走らせてやる。
「ありがと、大好き」
「おう」
 ホイッスルが鳴った。時間だ。遼は瀬那の腰をバシッと叩いた。あと十分。勝負だ。
 コートにすでにいる三人に向かって叫ぶ。
「信じてるぞてめーら、何とかしやがれ!」
「は! 俺たちのキャプテンは無茶振り王だな!」
 ふつふつと血が沸いている。試合開始から溜めていた体力が温度を上げる。
 上背は足りないが、その代わりスピードは負けない。テクニックも身に着けた。目で合図しなくても分かる仲間たちにも恵まれている。
 それまでの静かな展開との差にようやく相手が対応しきれたところで、冬伍にポジションをスイッチする。この慎重さも嫌いではない。静かに、一点を守り反撃するためのディフェンスだ。
 けれども、いつまでも試合をこう着状態にはさせない。取ったり取られたりの逆転に次ぐ逆転、一秒たりとも油断はできない。もう時間が無い。次にゴールを決めた方が勝利だ。
「攻めろ!」
 短いパスを回しあい、自分もインサイドへ切り込む。しかし、さすがにマークがきつい。外、三点、冬伍。ダメだ。位置が悪い。
「遼ちゃん!」
 声に振り向くと瀬那が手を上げていた。マークは一人。そのくらいてめーだったら振り切れるだろ?
「瀬那!」
 ほら、最高のパスを出してやる。気持ちよくキメてこい。
 張りついていたマークを振り切った瀬那が、ボールを受け取り踏み切った。

 ――あいつ、綺麗に跳ぶな。

 体育館のライトと、曇り空のうっすらとした光で瀬那がまぶしく見える。
 タンクトップから伸びる腕の筋肉、ボールを掴んだ手の筋、やわらかい膝、高く跳ぶためのふくらはぎ、ぎゅっとしまった足首。グレーがかった髪の毛先から汗が飛び、空気中にキラリと光って見える。
 いつもの、情けなく甘えた顔ではない。見開いた目、瞳孔、軽く開いた唇。

 かっこよくなったじゃねえか、瀬那。

 身体を大きくしならせて、瀬那がボールをゴールリングに叩き込んだ。
 わっと体育館が沸き、試合終了のホイッスルが鳴った。

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